これまでの日記や書いたものを、私としてではなく、私の個の一側面として捉える、私がそのようにして受け入れることによって、何か書くものや書かれたものを他者に読まれることを意識した時に生まれる恥ずかしさや後ろめたさを変質させられるのではないか。私の否定ではない。受け入れる、と書いたときに、それだと今まで否定していたみたいだなと思ったけれど、あるかたちでは否定していたのかもしれない。
内面化した他者性社会性があり、それらからの非難が強く、溶かしていければと思ってはいたが、しかしそれらもまた否定しきるものではなく、私の個としてそういった一側面同士がぶつかりあうところにうまれるものもあるかもしれない。町屋良平が『ことばの学校』で言っていた「他者のことばと自分のことばの擦れ目に文体がうまれる」みたいなことを思い出した。
今回の失踪、逃亡で、友人たちは私を心配してくれた、探してくれた、助けてくれた。愛されていると友人が言ってくれた、私もそう思えて嬉しかった。
日記は私の全てなどではなく、友人の中に私がおり、それもまた私なのだった。友人や職場の人など、それぞれの他者に投影された私があり、私の中にある他者もまた私に映った他者であり、誰かの中に映る誰かとして誰かはたくさんある。映っていない誰かもまた誰かである。ほんとうの私などはなく、あるとしたらそれら全てであるしそれら全体なのかもしれない。「部分が全体に奉仕するようにではなく、全ての部分に全体が宿るように」を思い出した。全ての誰かに映る誰かに、その誰かの全体も宿っているのかもしれない。
私ではないと、こんな私ではいけないと否定せず、個の一側面として受け入れられれば。私の否定ではない。内面化した他者性社会性によって生まれる恥ずかしさや後ろめたさを感じながら、咎めるようにして言う、何考えてんだ何書いてんだいたいたしい、みたいなことを。
日記や書いたものを私は私として捉えすぎていたのかもしれない。『不可分なわたし』は少し離れていた。『只中のここちよい』の詩を今日読み返してみたけれど、それも離れていたと思う。でも日記は。日記を私として捉えすぎていたような気がする。読んでもらう人やあまり読まれたくない人をおもったり、読んでもらうためのいいわけを待ってみたり。日記本がそうだった気がする、いやそうでもないのか、彼女が日記本のことを言ってくれたことは大きな理由だった。読んでもらう人やあまり読まれたくない人をおもったり、公開用の日記を酒の勢いをかりないと投稿できなかったり、それは私を曝け出すことに対する抵抗、ためらいだったのかもしれない、と思って、やはり私として捉えすぎている。私の全てではない。読まれたくない人をおもっていたのも、その人たちは会って時間を過ごすときの私以外の私をあまりしられていないかもしれないと思っていた人たちであり、その私と日記の私との差に戸惑わせてしまったり、距離が生まれてしまうことがこわかった。日記が私であると、思いすぎていた。
こわかった。私のことを知られることで離れられてしまうかもしれなくてこわかったのかもしれない。私が否定する私のことを、知られてしまうことが、こわかったのか?私が私を否定してやまないことが、ここにつながっているような気はする。
ここ最近、失踪、逃亡する少し前とその後に、昨年のお盆だったかに買った坂口恭平の『自己否定をやめるための百日間ドリル』を読んで私も否定することをやめられないかと考えられていて、今休んでいること、私がどうやら社会との相性が悪そうだぞということ、できないこと、いわゆる”ふつう”に社会生活を送るには多大な無理が必要そうだぞということ、逃げてしまったこと、心配をかけてしまったこと、迷惑をかけてしまっていること、そうしたことらをもって私を否定することを、かわせたりしている。でもやっぱりまだ苦しくなる。そのことにふれると体が強張り重い。明石の部屋では今日も寝不足だった。時間は必要そうである。
でも今日はこうして書き始められている。書くことと考えることがぴたりよりそっているようなあの感覚にはまだ程遠く、それはやはり長いこと何も書けていなかったので仕方がないことであるし、始められただけで嬉しいのだ。ギターも弾き始められて、弾いている間は心地よい。チューニングもまた新しいのがみつかった。嬉しい。
薬も捨てられた。何年か前に余らせていた大量の薬を逃げ道として持っていてしまったし、逃げる時にもそこから持っていっていたのだけれど、全部捨てられた。
日記の書き方も変えてみることにしようとしていて、日付を最後に記すことにした。これもまた変わるかもしれないけれど。義務感で書いていたわけではなかったけれど、やはり書けていなさが現れてしまいそれに少なからずダメージは受けていたのだと思う。また、いつだったかをはっきりと覚えておく必要はない、というようなことを考えたと思う。先日下書きに残していた、まだ下書きしかかけていなかった、
時系列を気にしすぎではないだろうか。過去も未来も、全てがそれぞれの今としてあるのみ、とも考えられる。私の今も、経過した今によってかたちづくられ変容しているものではあるが、それを確かめるようにして時間の順番に並べる必要はなく、私の中に遍在している、それぞれの今があり、私の今が瞬間瞬間。
いつだったかはそこまで重要じゃない、のではないか、思い出ではない。過去も未来もそれぞれの今としてあり、それぞれの今が場所時間の双方に痕跡としてある、主体にはまた別のありかたで痕跡としてある。過去と今だけではなく未来の今も痕跡としてあるかもしれない、主体にはまた別のあり方、別のあり方はどんなありかただったっけか。保坂和志の『こことよそ』だったか『ハレルヤ』だったか『十三夜のコインランドリー』だったかの中に書かれていたこととつながって浮かんだが、どんなありかただったか。
2026/4/17(金)