オムライスの日への展望

 八月に二つ応募したエッセイも九月に応募したエッセイもことごとくダメでありゃりゃという感じだったので、その中のオムライスの話を野に放ちます。八月の応募の一つはいくつでもだしてよかったから、数撃って当たれと思いながら日記を整えて四つくらい応募したもののバツ。もう一つには、水道会社から督促状が届いた日記を整えて応募したもののバツ。九月のやつの応募要項には、生活の中の感情がうんたらと書かれていたので、オムライスは生活の中にあるしなということでオムライスの日記を集めてつなげて整えたものの、これまたバツ。後もう一つ十月に応募したものが残っているので、お願いしますよと思いながら待つ。十万くれ〜と応募して、まあ十万もらえるしなという投げやりの感情が支出を担ってもいたからもらえなくて残念。次はなんとかお願いします。

 

 新しい部屋に引っ越してきて半年と少し、大学生の時にピークを迎えそれ以降は萎み気味であった自炊が緩やかに再開し、再び本格的に始めてから半年弱になる。料理に対する楽しさを感じ始めてから、料理だけでなく掃除や洗濯を含めた生活の実感に体重を預けるとそれ以外の時間の不安が預けた分薄らぐ、という自分なりの解釈を得た。そこからの生活の実感を得る時間はにこやかで、部屋はきれいだし洗濯物はいい匂いがするし野菜をよく食べて、健康診断の結果は体重が増えていたことを除くと花丸であった。料理を作るのは基本的に休日のみで、その日の昼食と夕食と、平日の夕食と弁当の作り置きが主であるのだが、二週間に一回はオムライスを作る。作るのは大抵土曜日の夜で、夕食兼お酒のお供である。オムライスを作った後は、決まってその匂いがしばらく残って漂っている。オムライスは人ではないにも関わらず、その匂いを残り香と言いたくなる。何を作ってもその料理の匂いは漂っているはずだがオムライスの残り香は殊更好きで、この残り香も含めてオムライスの楽しみとしている。作って食べて漂って。

 今回のオムライスのケチャップライスは、加熱調理におけるおいしさの秘密の一つであるらしいメイラード反応を意識して、玉ねぎをいつもより注意深く焼いて作った。みじん切りにした玉ねぎの一片一片が小さいからかいつも少し焦がしてしまうので、弱火でじっくり、捉えることが難しい色の変化に目を凝らしながら「メイラード反応…」と唱える。週末の作り置きのために買っておいたベーコンとぶなしめじも入れた。そうしてケチャップと、別の料理のために最近買っていたウスターソースを入れて焼いて、ケチャップライスが完成した。次はオムの部分である。フライパンの温度が八十度程になってしまうと卵がくっついてしまうらしいので、卵を入れても温度が下がりすぎないようにフライパンを入念に熱してから卵を注いだ。そうしたら一気に焼け始めたので慌ててかき混ぜてふわとろの卵のようにして、フライパンの温度が下がる前に素早く、破れないように慎重に、フライパンをとんとん叩いてケチャップライスの上に滑らせる。見事に卵はくっつかず、しかしちらりと見えた裏面は少し茶色がかっていた。メイラード反応、と思いながらそのまま乗せると、表面は半熟のため見た目はとってもおいしそう。味の方はいかにと、まだ残り香になっていない方のオムライスを食べてみたら見た目通りのおいしさであった。ビールを飲む。恐らく多くの人が知っていてそれを独り占めしたいがために大々的に公開されていないことだと思うのだが、オムライスはビールに合う。オムライスがメニューにある居酒屋やバーはそれとなく伝えてくれていた。

 食べ終えて、残り香になったオムライスを嗅ぐ。オムライスのみならずおいしいものの悪いところは、食べたら無くなってしまうということである。おいしさの余韻と残り香だけを残して去ってしまうなんて意地悪でずるい。でもおいしさへの感情はそういった非難の感情と別の部分でもはたらいているので、嫌いにはなれない。だから何度も作って食べて漂って嗅いでいる。この残り香も目で見えたらもっとオムライスの日になるのに、と思う。煙のようにゆらめきながら立ち昇って、食べた後に匂いに気がついて天井や壁に目をやるとその匂いの姿が所在なさげにうろうろしていたら。何色だろうか。つやっとした卵の黄色に夕焼けのようなケチャップライスの橙色。黄色と橙色の匂いの姿が消えていく前に空間を漂う、そこまで含めてオムライスの楽しみ、オムライスの日にしたい。そんな日が迎えられるのなら、借間だけれど部屋のど真ん中で換気扇を回さずに作りたい。じわじわと火が通っていくことによる姿の変化とそれによる匂いの姿の変化が、ご飯や玉ねぎやケチャップや卵などの要素一つ一つにオムライスが宿っていく様があって、完成したそれらを味わう。そうして目に見える残り香になる。作って食べて漂って。食べたオムライスが体内で、残り香になったオムライスが体外で、お互いにどことなく気を遣っているように踊って、今日はオムライスの日だと私はそれを眺める。残り香が壁と天井を覆って、部屋の中は卵に包まれたケチャップライスのようになる。匂いを暖かく被せられたケチャップライスの部屋に私も同化して、オムライスになれる。

 そんな休日、素晴らしそう。そう思いながら残り香をかき分けて食器をシンクに持って行って、水につけておいた。食器をそのまま放っておいたら洗う時に大変になることもまた、おいしいものの悪いところだ。

 

 オムライスになれることはないからエッセイではないのかもしれない。エッセイのことをよく知らないまま応募して、モンテーニュの「エセー」かそれについての本を読もうかなと日記に書いていたが、結局読んでおらずエッセイについて知らないままである。知らないけど最近は永井玲衣のエッセイがとても好きでよく読んでいる。十月に友達の結婚式があり、それまでの時間を潰す目的で行った図書館で読んだ「群像」の中に収録されていたものがとても好きで鼻をすんすんいわせていた。「世界の適切な保存」という連載らしいので、それからは図書館に行った際にはそれを読んでいる。駐車料金は一時間しか無料にならないためそれをちょっと気にしながら。十二月に衝動買いみたいにして買った「水中の哲学者たち」を読んだり、太田出版というところのwebマガジンに連載されている(されていた?)「ねそべるてつがく」を読んだりしている。少し前に本屋で新しい号を立ち読みしようとしたら見当たらなかったので、もう連載終了してしまったのだろうか。

 少し前にドリアが食べたくなって、オーブンがないから炊飯器で作れるレシピを探したら見つかったのだが、そのレシピでは炊飯器でチキンライスを作った後にチーズとホワイトソースをかけて蒸らすという作り方だった。そのため、オムライスにしたらおいしいのでは?と思ったのでそうした。チキンライスができてとてもいい匂い、作っておいたホワイトソースとチーズをかけて蒸らして、卵をつくってそれにのせた。オムライスロード、ネクストステージへ、、、と思った。チキンライスが上手にできたしチーズとホワイトソースはまずいわけがないためとてもおいしかった。しかしはちゃめちゃに重たかった。ネクストステージにはまだちょっと早かったかもしれない。

11/4(土)

 大切な人たちに短い期間の中で何回か会うことへの不安は、その人たちへの想いが薄れてしまうからではなく、基本的に元気がなくて鬱々としている自分が表出してしまいそうだから、だということを考えた。出発点である不安はそのままであれどそれは時と共に変容していき、だからそれに至る思考は変わる、変わるということが正しくはなく、でてきた理由や思考が時とその間の自分によってその都度形取られていくといったほう近いのかもしれない。会いたい人には会いたいしそうして快い時間をすごしたい、身を委ねていたい、会って話がしたい笑顔を交わしたい。笑顔でなくともその人の話をきかせてくれるのなら、楽しさ嬉しさのみでなくその人自身の今をきかせてくれるのなら僕はうんと聞きたいし何を言えるのかはわからないけれどそれに相対した言葉があってほしいと思う。それがどうきこえるのかはわからないし傷つけてしまうかもしれないし距離を感じさせてしまうかもしれない。でも誰も今のその人であって距離と時間は過去の姿を留めさせないからどうしようもない。ただそれぞれの今の姿であっても過去による繋がりを今として保つことができたのならそれはまた新たな喜びで大切さの更新だ。そうしてあなたたちと繋がり続けることができるのならどんなにいいかと思う。現段階での私の生きていられる理由あるいは原因は、一人称の希釈への願望とその最中、そして大切な人たちである。大切な人たちの曲をつくる中で重すぎる愛はますます肥大化していてでも曲とそのための絵を描く中で、主観だけで見るとその醜さはほんの少しだけ、少しずつ剥がれている。

 人称の分裂は日記の話で、あなたもわたしもおれも僕も、その都度かわってそこでそうらしい人称を使用している。それが正しさなのかどうかは知らない。逃げでもいいよ、日記に任せてそのままでいたらいいよ。いいのか?日記ばかり書いて本当にいいのだろうか。10月が終わっていたから、エッセイを応募し始めてから始めた日記のカテゴリわけ、月一回するようにしたカテゴリ分けを先ほどしていたのだが、ほとんどの日記を「なんとなく」にわけてしまった。カテゴリについてはエッセイを書くにあったて最初に作ったもので、それはすぐにその意味をなくして幾つか作ったカテゴリの中でももう今はそのうちの三、四個しか使わない。そして多くは「なんとなく」に割り振られている。なんとなく好きかも思ったもの。「なんとなく」の次に多いのが「大切な人たちへ」だから、大切な人たちに対する感情から生まれた日記があることに安心する。憂鬱や不安で頭がいっぱいでもその中でその人たちを考えることができている。曲やらなきゃ。

 先ほどまで何を書いたかあまり覚えていないから良い具合に酔えているのかもしれない。ワインを飲み始めてからか頭はそれほどぐらぐらしていないものの足はふらついて、トイレに行くまでにくらっとしたついでにくるりと回ってみた。酔いの影響の比重は身体にふれている。でもその分思考回路も酒に浸かっているだろうから、まだまともであるという錯覚で書いておいた方がいい。他者依存的な私の書く日記には他者がいて、でも一人称の希釈という喜びに気がつくことができたから日記に介してしまう他者は変わっているのかもしれない。癒着した他者は剥がれずそれは思春期と共に卒業すべき自意識で、できなかったからそれは成長をやめずスピンオフか隠しルートか描かれなかったそれからのように続いていて愚かである。

逃げるようにして曲に向かって、その中では自分がいない心地になれるから好きだ。そこではおそらく一人称を携えない思考でものを考え曲やら絵やら文章やらの中にいられているのでずっといたい。自分であるのかとか自分なのかとか考えていた時期もあったが、もう自分が鬱陶しくてたまらないので自分がいない心地になれること、自分がいないなんてことは生きている間は起こり得なくてその状態になれることは死ぬまでないのだけれど、擬似的でも錯覚でも一人称が消えた中にいられるということが嬉しい。それは大切な人たちとあっている時もそうなのかもしれない。自分という意識の希釈、いたい時間生きたい時間の中にいるにはそれに沈むことができる対象との触れ合いが必要で、自分のみでそこに至ることは難しい。その対象は曲なり文章なりをすることだしきいたりみたりすることであるし誰かであるし、もしかしたら歩くとか洗濯物を干すとか料理をするとか掃除をするということでもあるのかもしれない。ドラマー的身体感覚、冗談めかしたすかすかの論理を説明する空想をしていた。最初は連動に意識が向いているが積み重ねていけばその意識は細分化され、叩くということのみになり、それの組み合わせとなっていく。自分への意識ももしかしたらそれに似ていて、自分が行っている行為、先に書いたそれらは自分で行なっていることではあるが、任せる委ねるなどといった意識が自分の行動や思考に対してすらはたらきはじめ、それは他人事の領域ににじりより、そうしてその行為の細分化が進み行為と自分が切り離されている錯覚に気がつかないまま沈むことができ、その中にいる自分の意識が希釈される、というこれもまたドラマー的身体感覚と同じすかすかの論理で、後から見返して何言ってんだろってなるのかな。

 こんなことを書いていた日記があり、私が日記を書いているという感覚ではなく、日記の中で日記を書いているという感覚の中にいられている時かがあり、その状態をそうと気がつけてからそれが私の生きたい今であることになって、曲やらなにやらの中にいるときはそれでいられているような気がする。大切な人たちと話したり会ったりしている時もそうで、快さに身を任せられているから一人称は希釈されている、あなたたちとの接触の喜びからその時間の私は出発していてそこでの会話に対する後ろめたさは薄らいでいる、だからあばらやの思考をつらつら語ってしまうしでもきいてくれたりはなしてくれたりすことに、というよりその今に身を委ねている。委ねられてしまっているから後から反省や後悔が生まれもする。

あなたたちの叫びやわたしが震わされる何某かの作品での叫びのようなもの。自らへ、それを通した世界への叫びのようなものがあり、それが何かを訴えることでも伝えようとすることでもなくとも、ただその姿だけで共振するようにして自らの内に発する熱がある。物静かで黙していようとも蹲って頭を抱えていようともさめざめ涙を流していようとも、その姿が、その姿に。これもまた非道な感性なのかもしれない。辛く苦しむ姿に惹かれてしまうのはなぜなのだろう。あなたも生きているとおもえるからなのだろうか。あなたもその途方もなさで立ち尽くしていると思えるからなのだろうか。内と外に際限なく続く膨張の間で圧迫され、動けない、動きづらい、あなたも、と思うからなのだろうか。

 最近こんなことを書いていてどうしてだろうと思っていたが、カテゴリ分けのための日記の読み返しの中で、僕もだからかと思ってしまった。僕もだからか。苦しさに苛まれ続けその苦しさは全て自分が原因であることに対して苛まれ続け、生きづらいのは世界ではなく世界を見る己自身なのだと苛まれて、もう手も足も出なくて、手も足もあるけど出す先は自分だからそれはただ自分でいることで、自分でいることが苦しさであるのならばどう足掻いてもで、じたばたした手足は空を切る感触しか得られない。内と外に広がり続ける果てしない膨張の中で圧迫され溺れて、でもその都度縋る藁のようなものがある。藁だからとっても生きたそうでよかったね、浮かびはしないけれど。浮かびはしないけれど縋れて、縋れたほんの一時の安堵にいつまでもいられる。一瞬でも瞬間の最小単位はその中に存在しているから、その単位に潜り込んでがしりと掴んで、い、生きられている!

 僕もだからかなんてことを思ってしまったが、苦しさ始め感情はその人特有のかたちで、似ていることはあるかもしれないが同じではない、触れられない。誰かがほんとうは何を叫んでいるのかはわからない。でも近さで伝わる温度がある?昔読んだ梨木香歩の小説の中で「シロクマが北極にいることを咎める人はいない」とかいていたし、最近読んでいるヤマシタトモコの「違国日記」の中で「私が何に傷つくかは私が決めることだ あなたが断ずることじゃない!」とかいていた。これらのようなものが自分の中に残っているのは惹かれているからで伝わる温度があるからということだったらいい。あなたの中の苦しみはあなたのものでそれは何かと比較するようなことではなく、あなたが苦しいのならそれは苦しい。でもこれは、その苦しさに何も干渉することができず何にも和らげることができないということにもなってしまいそうで、苦しみは尊重されるべきだと思うのにそれがさらなる苦しみを生んでしまいそうだから、困ってる。 

何にも苛まれず何にもとらわれず穏やかな中で生きていてほしい、生きたい今にいてほしい。そう思うのはそれが決して叶わないことだからだ。苦しいことから離れなければならない離れた方がいい、そこにいる必要はない、そう思うのはそれが決して叶わないことだからだ。離れられないことだからだ。どこにいようが何をしていようが身の丈にあった、あっているのかわからない不安は馴れ馴れしく肩をたたいて一方的な親近感、肩を組んできさえするかもしれない。一緒の布団に入ってへへへと笑っているかもしれない。あいつらはそうしている、感触のない接触と接近を続けて今でもそばにいる。ずっと一緒だよと小さな声で囁くことが日課だ。触れられないし聞こえないけれど、思考の盲点で泳いでいる。あいつらはずっとそばにいて、頼んでもないのに、困っている。

 日記の中では最近困ってばかりいるし不安を擬人化してしまっていたりするから、見返したらおもしろい。

 もふもふの犬と接したい。いつかインスタで流れてきた動画で、地下街をでかくてもふもふの犬が大勢走り回っていて「ほんとかよ〜」と言いながら笑っていた。そんな瞬間に出会えたのなら、しゃがみ込んで両手を広げてうわーといいながらぶつかられたい。食べられてもいい。

 

11/3(金)

 何を選んでも間違いであるのなら、間違いとまではいかなくとも何を選んでも後悔や反省や後ろめたさが頭を埋め尽くすのならばどう足掻いてもだ。どう足掻いてもなので間違いであると分かりながらも選びたい方を選んでしまうことになる。贅沢な不調を言い訳に白旗を振る。派遣先を変えてもらうぞ〜。

 贅沢な不調、やりたいことができないというのは贅沢な不調なのか。食事や風呂や洗濯がめんどくさいのはふつうで、生活に助けられてるなんて意味づけをしてそれができないと嘆くのは、贅沢な不調なのか。ケーキがないからパンしか食べるものがない!そう言っているのと同じなのか。パンがあればいいじゃないかパンで生きろよ贅沢言うな。でもパンだけでなくバラも求めようって書いてあった。それも贅沢か。パンはけそけそでしなびててもいいから両手いっぱいのばらを求めます。

 不調が贅沢ということに気がついてしまった日の日記。不調が贅沢だから怠惰な精神だけがぶくぶくと肥えている。選んでしまうことになる、しかないと言うことは断定的できっとそれだけではないからそう言えず、ことになる、と書いてしまう。ことになる、また他人事だな。どう足掻いてもではあるけどそればかりではないことは知っている、快いひとときの後日に埋め尽くされていることはなく、反省や後悔や後ろめたさがありながらも快さは必ずあり、多分それに生かされているし多分そうだから今の曲をつくっている。大切な人たちの曲、親愛なるあなたたちへ!動画に写真を使うのは気が引けるし誰がみてもここに写っているのは誰であるということがわかってしまうから絵を描くことになって、大切な人たちが映った写真を絵に描いている。そういえば僕は昔はお絵かき少年だったんだよなという貧弱な担保で描いているからそっくりそのままというわけにはいかず、でもその写真を知っている人がかろうじてわかるくらいであれたらちょうどいいなと思う。勝手に描いてしまってよいのだろうかこの写真は困るかなと悩んでもいたが、その人そのままにはならないし視聴率は高くないことを思い出したのでその悩みは無くなった。いっぱい描くぞと思っていたが全然描けないから予定枚数は少なくなったし描きたい人みんなは描けない、でも描き続けていたら曲を終わらせられないから仕方ない。自己完結的な愛で曲をつくっている。

 そんな人たちと過ごした快い時間の後は埋め尽くされていることはなく、楽しかったと余韻の中で呆けている時もある。でもやはり埋め尽くすまではいかないものの反省や後悔や後ろめたさは生まれていて、それにはムラがある。会話の一部分や振る舞いの一部分を思い出しては苦しくなるし、それを補うようにして無い会話の空想や言い訳めいた補足説明を頭の中で浮かべるもその救済行為はエセで誰も何も救わないし過ちは消えない。言葉にはカエシがついていて口から出た言葉も耳に入った言葉も元に戻ることはない。自分以外の感情の機微を知ることはできないが、無知は罪で悪意のない悪も罪だった、そんな過ちを幾度も犯して、ごめんね。反省や後悔や後ろめたさが生まれる原因である、大切な人たちやその場に対する自らのそぐわなさの意識は私自身の根の部分であり今に至る積層の下方に位置している。足元に近いから歩くたびに振動はその層を経由して私の今に至るから、私の今の中に生まれる熱にどうしてもそれが含まれてしまっている。私との会話の中で句読点のように「きも」という人はもう周りにいないし大切な人たちは尚更であるのに、私は私自身の気持ち悪さを拭えずにいて独り言の上位は「ごめんね」と「きもちわるい」である。それは大切な人たちに対してとても失礼なことなのに。笑って接してくれる話しかけてくれる話をしてくれる話を聞いてくれる隣に座ってくれる向かいに座ってくれる。私は気まずさが苦手だから快さに身を委ねてしまうけど、その中で一緒に笑ってくれる話してくれる。私のあばらやのような思考をだらだらと話しても一緒に考えてくれる、そこから何かを話してくれる、聞いてくれる、会話をしてくれる。それなのにそれなのに、去年の頭くらいに決めたこともあり、私はいまだに何かきっかけがないと話しかけることができない。私を私として接してくれる人に、私は自分のことばかりで気がつくことができていない。自身の後ろめたさばかりに気を取られ、それは断絶ではないのか?この後ろめたさの心性は消え去ることはないだろうしずっと一緒だよといつか言っていた。けれど、鈍く尖った内省の繰り返しはその人たちに背を向けているのと同じで、それはあたたかさを蔑ろにしているのではないか。その人の苦しみを見つめることを放棄しているのではないか。そう思うのに、そう思っていることもまたこの後ろめたさの内側の思考であり全て自分だ。大切な人たちの曲を、それはそうなのだけれどその愛は自己完結的で届ける気がないのだと思う。ずっとと決めてから日記に大切な人たちのことを書くことが増えて、重すぎる愛が肥大化している。この重さは、迷惑だ。迷惑だから、誰にもわかられないままわからないままの形であれてよかった。詩や歌にはなれず伝達や意味の色合いが濃いままの声を諦めたかたちで曲をつくれてよかった。

 でも伝えたさはあるままで、それが相手にどのような感情を運ぶのかがわからないから伝えられないで、わからない以外にもやはり僕ではないという思いがあるから、難しい。何を選んでもどう足掻いてもであるならば、とは思うがそれはあまり迷惑をかけないようにという前提がある。誰にもではあるし大切な人たちには殊更そうで、だから伝えたいことはあれど踏み切れない。どう足掻いてもであるならば何もしない方がいい、という結論がある、あってしまう。何も正しくないのであればその無行為もまた正しくないのに。でもどう足掻いてもだから、と堂々巡りであるから困る。

 でも最近あなたには考えていることや会話の中で生まれた流れのままに伝えることができている。それはあなたに対してやっと、自らのきもちわるさや後ろめたさを拭えてきたということなのだろうか。それとも、曲と共に感じた感動と展望があってしまったからなのだろうか。わからないけれど、それをきいてくれて話してくれるあなたが大好きである。後日の後ろめたさの中で「もう会ってくれないかも」「もう話してくれないかも」と思うこともあるのだがそれでも会ってくれるし話してくれて嬉しい!

 心性みたいなものと別の後ろめたさを感じているあなたには何もできなくて、でもいなくなってしまいそうで怖いのだけど、それが杞憂であればいいのだけど、だけど、どうなのだろう。

8/26(土)

 金麦のことは好きだけれど季節を先取りしすぎるところは嫌い。そう書いていた日記は確か今年の金麦の夏缶が店頭に並び出した頃で、いつからか金麦の季節缶、夏以外でもそうで「〜の味できました」という缶が並び出す頃に毎回むっとしてそれを避けて別のビールにしていた。それを書いていた日も確かそうして隣に並んでいたクリアアサヒをカゴに入れていた。でも今年の自らの夏初めは早くて、それは去年暑さがやわらいでもう多分秋に突入しているであろう頃、バスの中で降車ボタンを押そうとしていた時に着ていた半袖のシャツの袖がするっと垂れて日焼けしていない部分が見えてああ夏だったのかと思ったのを思い出したからで、その時と同じシャツを着て部屋の中で同じように腕を上げて半袖が垂れるのをみてもう夏だと思ってから夏が始まった、のでそれから嬉しそうに金麦の夏缶をかごに入れていた。でも確か5月の異常な暑さが続いていたあたりで既に秋への展望が芽吹いていて、今年は絶対にカーディガンを買うぞ、一着じゃないぞ、みたいなことを日記に書いていた。その時は秋になったら思い出してねと書いていたのだけれど、思い出すまでもなくずっと残っていて、「伊豆の踊り子」とか「よつばと!」とかの中に出てくる秋をみて、まだ夏の暑さの記憶が残る肌を冷まし覚ます秋のひんやりを読んで、愛おしい!みたいなことを日記に書いていた。日記の思考。下がっていく気温、ではなく、取り戻すと言う感覚すらある、そんな大袈裟なことも書いていた。日記の思考。そんな待ち望んでいる秋だが、昨日の帰りにいつものようにスーパーにビールを買いに行くと店員さんが金麦の秋缶を並べていた。秋缶が並べられたら三本くらい放り込むかもと書いていたのに、いざ並べられているのを見ると戸惑ってしまった。うっ、となって遠目で立ち止まったら、並べられていた普通のサイズの上にあるロングサイズはまだ夏缶であった。店員さん並べてるし、いつも買うのはロングサイズだし、と思いながら近くに行ってロングサイズの夏缶の方をかごにいれたものの、そのままレジに行かずに後方のお惣菜コーナーで買うつもりもないお惣菜を見ながら秋への展望とつもりのことを思い出してうろうろ、なぜこんなくだらないことでどぎまぎしている?くだらない思考性へのヘイトがどぎまぎに重なって、結局店員さんが少し離れたのを見計らって秋缶を取りに行った。並べているのにそれをとっちゃってすみません、みたいな笑みをマスクの下で浮かべながら店員さんの方を見たら店員さんは並んだ缶と並べる缶を見つめ続けていたので、変な人になってしまった。

 スーパーから住んでいる部屋に帰る道はそれ以外の日と異なり、なので途中にある大きな道の信号の色が2パターンある帰り道を決める。昨日は青だったからそれを渡って帰っていた。どちらを選んでも上り坂なのだけれど、坂を登ると自然に頭が下を向いてしまってそのせいなのか考えることも暗い内容になってしまう、と坂道に責任を押し付ける。うっ、となって遠目で立ち止まった、の間に金麦の夏缶がうんたら秋がうんたら秋缶がうんたら夏缶と秋缶が並んでいてうんたら、日記に書くみたいな思考が流れていて、日記の思考、これ日記の弊害なのではないか?という心配がどぎまぎに重なるみたいで、そのどぎまぎの発端は今の仕事の段階における自分の状態があるのだろうけれど、もしかしたら出来事を出来事として受け止められていない?と変な心配、これも日記の思考?お盆休みが10連休もあって、その序盤にお酒を飲みながら明日も休みという嬉しさを考えた後に予想の域を出ない長い連休が終わる直前に感じるであろう憂鬱が被さって、それをそのまま日記に書いていたらへんてこな比喩が出来上がってしまって、日記の思考でわけのわからない比喩を、と書いていた自分の日記へのなすりつけがなんだか、どっちだ。誰かと快い時間を過ごした時空間が拡張された域の記憶のみが記憶らしさを保った記憶、懐かしさのようなものを伴った情景で、それ以外の記憶が日記を介してのみ思い出されているみたいな心配があったが、ちゃんとそうではない域の記憶にも懐かしさが伴って最近思い出されたので安心。日記の思考なんてものは考えすぎで日記はただの日記であった。日記は精神衛生上に良いらしいので良いらしい。書いた方がいいこともある。前に読んだミア・ハンセン=ラブという映画監督へのインタビュー記事の中でその記事を書いた人が、その人やセリーヌ・シアマにとって映画は一種のセラピーでもある、と書いていた。何かをつくることが自らの心の安らぎ、精神の安定、生へとつながる。生きられる。こともあるらしい、ので、曲も曲のための日記もどちらもあばらやの佇まいであろうが生の立場から見て良いものでありうる、かもしれない。社会性は?

 今朝は昨夜の時間の快さを持ち越したまま目覚めて予約してあった美容院に向かうために上機嫌で部屋を出たが、鍵を閉めた後に部屋の鍵を持って出ていないことに気がついた。今住んでいる部屋の鍵は電子キーで、鍵がわりに暗証番号かICカードスマホが選べるもので僕は鍵をICカードにしていたのだが、それが入ったキーケースごと部屋に置き去りにしたまま出てしまっていた。上機嫌さはその事態の深刻さを飲み込みきれず、鍵は部屋の中、入れない、美容院に遅れる、電話しなきゃ、管理会社にも電話しなきゃ、などを順番にゆっくり理解してとりあえず美容院に電話したが、今日は予約が詰まっているので遅らせられませんとのことで走って向かっていた。でも信号で待っている間に今日の最後の枠にずらしてもらえることになったのでそうさせてもらった。サポートセンターや管理会社に電話して無事開錠のために来てもらえることになり、待つ間は玄関の前に座り込んで昨日更新されていた「ヤンキー君と科学ごはん」を読んで、今回はいつにもまして科学チックだったので逆に怪しくなってこれを信じすぎかも?と思ってしまったので、その漫画の調理法を監修している樋口直哉という人について調べていたらその人のnoteがあったので面白くて読んでいた。そうしている間に管理会社の人が来てくれて鍵を開けてくれたので、もうこんな過ちを繰り返さないためにICカードと暗証番号の二つを登録した。絵に描いたような失敗、皿を割ってしまうことも会社でずっこけてしまうこともそうで、それはテンプレートっぽいけど実は現実ではそんなに起こることいではなくて、実際苦笑いされてしまうんだろう。今日も以前にずっこけた時も苦笑いさせてしまった。鍵をしまいこんでしまうことなんてありそうだと実際それをしてしまう前には思っていたが、今日来てくれた人はこの事例は初めてだと言っていて動作には手探り感があった。絵に描いたような失敗、そんなことを部屋に入った後に日記に書いていて、ずらしてもらった美容院で事の顛末を話す際に「絵に描いたようなポンコツぶりで、、」といいながら「ような」あたりでこれ全然口語じゃないよという後悔が乗っかって尻すぼみになっちゃった。

 髪を切ってもらって重たい頭がすっきり、再来月の結婚式のために髪の整え方も教えてもらってふんふんなるほど!帰り際に巨大な積乱雲の中で雷がびかびか光っていて、もしかして今日で終わり?なんてことを考えながら空を録画していたらビールを買って帰るのを忘れてしまった。のでスーパーに向かって屋上の駐車場ででかくて丸いタンク越しに稲光を見て、なにやらどうも下っ腹がでてきはじめてているので小さい方の秋缶を買って帰った。風呂に入って昨日作って美味しかったなんちゃってクリームパスタをまた作って食べて飲んだ。

6/18(日)

 予約してあった美容院から、予約の時間を変更するお願いの電話がきた。普段は開けていないであろう平日の夕方も可能であることを伝えられたのだが、平日の仕事終わりに美容院に行ってそこから帰ることを想像すると気乗りがしなかった。電話口で渋っていたら、本来は休みである日曜の朝でも大丈夫と言ってくれたので、おことばに甘えてそうさせてもらった。その今日、少し寝坊してしまって平日並の速度で準備をして向かった。

 髪を切りながらちょくちょく美容師さんが隣の部屋に行っていたので、傍に置いてあった雑誌を手に取った。髪を切り始める前に「雑誌読まないですもんね」と言いながら近くの台の2段目によけていたその雑誌。最初のセリフの当てつけみたいかもしれないと思いながらも、美容院での雑誌の読み方がわからなかったから丁度いいタイミングでもあった。美容院での雑誌の読み方がわからない、そう考えてしまうと今まで行っていたどの美容院でも雑誌を読んでいなかったことを思い出して、実はこれ美容師さん的にものすごく困ることなんでない??と気づいてしまった。今まで美容院に通うことを決める基準は、切った後の髪の感じもさることながら、話さなくてもいいことに重点が置かれていた。髪も変じゃないしあまり話しかけてこないからここにしようかな〜。しかし、何も話さないくせに雑誌も読まない黙って鏡を見つめ続ける客、恐ろしい客のような気がしてきた。客が何も話さなくても雑誌を読んでさえいればその雑誌のページから会話が広がらせることもできるだろうに。月に一回くるかこないかの客のことをいちいち覚えてはいられないのに、その客とほぼ二人だけの時間において会話がなされないのは、もしかすると相当おかしな話だったりするかもしれない。相当困ることなのでは?広島と姫路で通っていたところは全く会話をすることなく、切られている間は何かしらのことをぼんやり考えたり浮かんだりさせていた。広島の美容師さんは丹精たっぷりこもった所作で好きだった。じっと鏡を見つめているようではあるが、メガネを外しているから鏡は全く見えない。そんな客を目の前にする美容師さんの心情やいかに。気づいてしまったかもしれないと思いながら申し訳なさと共に開いていた雑誌のページは、メガネをかけていないからほとんど読めなかった。

 近くのショッピングモールの駐車料金はカードを作れば一時間無料になるという話をしてくれて、暇だったのでその後そのままカードを作りに行った。クレジット機能もついているため名前やら住所やらの登録に時間はかかったが無事完成。勤め先の情報を書くところで時間がかかってしまった。会社のことを何も知らない、従業員数も電話番号も、そもそも仕事は会社員なのか派遣社員なのか。わからなくて調べるのも面倒くさくなって少し適当になってしまった。カードを作ったら館内で使える金券が三千円分ももらえて、しかも駐車料金を四時間分無料にしてもらえたので、昼ごはんを館内にあるご飯屋で食べることにした。中華料理か和食かオムライスかで悩んだが、カツを食べたかったので和食に。家族亭という名前で家族で賑わっている店に無家族で入った。オムライスの店は少し入りづらさを感じたのになぜここは入れたのだろう。注文したヒレカツ丼セットはヒレカツたちに十分なスペースが与えられてゆったりとしているお重であった。

 カツ丼と蕎麦を食べたのにパン屋でソーセージパンを買った。出来立ての札が立てられていたけれど、出来立てブランドが許されるギリギリの時間だったようで冷めていた。駐車料金が無料になったから近くにある図書館にも行った。今借りてある本の貸出期間の延長とくどうれいんのエッセイをかりようかな〜と思っていたが、延長はネットでするらしく、エッセイはなかった。しかしエッセイの連載が掲載されている文芸誌があったのでいくつか読んだ。町屋良平の小説とハイデガーの入門書を借りた。その後買い物に行って帰ったら16時だった。

 疲れた、そんな疲れるようなことしたっけ。疲れて横になってだらだら漫画を読んだりした後だらだら作り置きをして、だらだらしていた。新しい卵焼き用のフライパンで卵焼きを作っていたときは楽しかったのだが、水につけていたひじきの量が多すぎてざるにいっぱい刺さっているのをみてからは、料理をめんどくさく感じてしまった。初めて作るものは作りすぎがち。ひじきは芽ひじきが正解だったみたい。ひじきを煮込んだ後、炊き込みご飯にした鮭の骨を取っているあたりからものすごく面倒くさくなってしまった。晩御飯に食べようと解凍していた鶏肉、作るのやめようかなと思ったけれど腐っては困るから、美味しくしてやるからな!とラップに包まれていたそれをぺしぺし叩いて、最近買ったほりにしをかけまくって丼にしたら美味しかった。

4/15(土)

 雨の境目に立ち会ったことはありますか。僕は二回だけあります。一度目は中学生の頃、部活の練習で中学校から5キロくらい離れた河原にあるテニスコートに走って行かされた。そこで練習をし終えてから片付けをしていた時のこと。コートの外に飛んでいったボールを拾いにいった時、雨の匂いがしていた。雨のことなんて降っている時の匂いや降った後の湿った空気とぬかるんだ地面くらいしか知らなかった。そういえば最近近所の子どもがこれ雨上がりってやつだねと言っていて母親に褒められていた。そうだねよく知っているねと母親。雨上がりの新鮮な感覚、さぞ瑞々しいことだろう。おばあちゃんは明日雨が降ることを知っていた、農家のおばあちゃんは天気のことに詳しかった。真似して雨の兆しを感じ取ろうとしていたけれど、むむこれは明日雨かなと思った次の日にはそう考えたことを忘れていて結局何も知らないままだった。風が強く吹けば雨が降るんだったっけな、学校の渡り廊下を歩きながらその隙間に考えては渡り終える頃には忘れていた。

 雨の匂いがしていた。ボールを拾いながらおばあちゃんや雨のことを思い出して、むむこれは雨だなと天気に詳しいおばあちゃんがいるという優越感にひたひたの真似事をしていると雨の音が聞こえてきた。しかし濡れていない、降っていない。むむ?はてなが浮かぶ頃には河原の開けた地面が雨の音と共に向こうからどんどん濡れてきている。雨が、そう思った頃には濡れていた。雨足のつま先に触れていた。

 二度目は最初の職場の街に住んでいた時のこと、家から歩いてどこかに向かっていた。どこに向かってたんだっけ、休日だったような。依然として雨の予兆を知ることはなく、天気のことは目覚まし代わりのテレビのニュースによって確認していた。アパートを出て新幹線が通る高架下を潜り抜ける時、少し向こうの水たまりに波紋が広がっていた、これはあの時と同じやつだ!ざー、雨足は高架をあっというまに駆けていった。

 中学生の頃の同じ部活の友達と一度晩御飯を共にしたことがあった。その時の料理が白身魚のフライで、タルタルソースが自家製だった。我が家のことしか知らない中学生なのでいつものように美味しく食べていたが、後で聞いたところによるとそのタルタルソースがとてもおいしかったと友達が言っていたらしい。きゅうりが入っているのがポイントだとお母さんに力説していたそう。タルタルソース、きゅうり入っていたらおいしそう。ピクルスが入っているのが好き。どこかの居酒屋料理についていたタルタルソースにピクルスが入っていておいしかった。最初の職場の街に住んでいた頃、アパートの近くの居酒屋に入った時に出てきた突き出しのピクルスがすごく美味しくて、これはなんですかと聞いたらオリーブのピクルスだった。誰かにそれを話したら、ピクルスではなくてそれを聞いたことに驚かれた。確かに。社交性の低さは酒によって補われる。いつかみたKOTORIのライブのBGMがすごくよくて、終わった後にあれ誰が作ったんですかと物販の人に尋ねたらボーカルの人らしくて、少し話した。酒によって補われた。みんなほろ酔いなら争いは起こらない、なるほど確かにな〜と頷いている。

 タルタルソースが食べたくなったのでピクルスを作った。オリーブはないけれど玉ねぎがあったので細かく切って酢に漬け込んでいる。明日ゆで卵を作ってタルタルします。鮭があるから焼いてつけて食べよう。おいしそう。

2月終わり頃〜3月頭らへん

「2023/2/26 束の間」という名前のプレイリストを止める。先週作った、日曜日に料理をしながら生活の実感に心身を預けるプレイリスト。いつからか日記みたいなプレイリストの作り方をしていて日付と一言の名前のプレイリストが溜まっている。料理をすることで得られる生活の実感、広い部屋によるどこかの充足が以前まで感じていた料理をすることや掃除をすることへの億劫さを排除し、実感を得られる生活の層の中に移行できている。その移行の際に段差や傾斜はなく気付けばそれに体重を少し預けていて、この実感の中では折り目のようになっている週末の朧げな不安は預けた体重と同じくらいだけ薄らいでいる。生活に助けられている。こんな感じのことどこかで読んだなと思って机に並べてある雑誌をぱらぱらめくったらあった。鍋を火にかけないと温まらない思想がある、どうやらそうらしい。洗濯物を抱え上げる時にしかわからない信念の重みも感じたい。預けた分薄らぐのなら、もっと生活と懇意になっていけばうまくいくさ。広い部屋は品の良い毒素で満ち満ちている。知っていてもたれかかった生活の角度に合わせて僕も傾いていきそのうち横たわる。ああそろそろか、もうこんなになっていたか、どんどん空が視界を埋めていく。橋も川もすすきも電車も見えなくなってぽかぽかした丸い熱と柔らかい風にあたりながら薄くなった青を見つめて、春の雲はどんなだっけと思いながら空だけを見る。春の雲はどんなだっけ。暖かさの中でまたいつかの春を思い出すのだろうか。いつかの春とはいつの春なのだろうか。気温が上がったからという理由のみでコートを着たり脱いだりしていた春かな。堆く積まれた何かと境目がちな記憶が持ち上げられていた春もあったが今年はまだそんなにない。どうしてこの生ぬるさを、まだ冷たい風の記憶が皮膚に残っている間にかすめていく初春の風を、近づいて大気のへりを滑らかにする日差しを、春の雲を、知らぬまま過ごさなくてはならないのだろうと思った。頻発するくしゃみと垂れる鼻水にしか春を思い出させられないのはどうしてだ。変な人が増える春だから、傾いて横たわって目を閉じてもなんらおかしなことはない。みんな変だから何しても大丈夫だ。陽気に目を閉じて幸せを祈ろう。

 ぴいと鳥が鳴いた、残響はぬるさに溶け少し湿って散り散りになっていく。粒の霧散が気になるくらいに音はない。暖かな日差しが首筋の線に沿って被さっている。春だった、春の雲はどんなだっけ、そう日記に書いていたことを思い出し空を見上げたい気持ちになるももう見上げられなかったので仕方なく春特有の記憶の持ち上がりに委ねてその中で春の雲を思い出せないか探っている時に、ひやりとした感触が被さる暖かさに水を差す。細い。それは鋭利であることを知っていた。波紋は広がらずただその鋭い線が首に触れ、切断のための薄い一線と自然的である人間の身体の曲線が合わさるわずかな面にのみ春の日差しと自らの体温がその鋭利なものに吸い取られていくのがわかる。研ぎ澄まされているそれによって冷たさと同時にちりりと痛み、ちょっと切れたらしい。その後すぐに冷たさは首筋を離れていった。そうだ、これは位置合わせ、目指す目標を確かめる、振り下ろす先と振り上げた切先の線を引くための動作だ。間も無く振り下ろされる。静かである、静寂をその身に宿しているのが伝わってくる。躊躇は見当たらない、冷たさの主は幾度も繰り返してきておりこの場での落ちつきが全て必要であることを知っている。穏やかに、しかし躊躇わず漲らせず振り抜くことが正しいこと。静かである。奪われたあたたかさは降り注ぎ続ける春の日差しに補われそこには少しだけのひりつきがある。切れているらしいそれのみでなく、静謐な視線と結ばれた線によって集まっている。要素は少ない。垂れた首筋、暖かな日差し、眼差し。春の雲はどんなだっけ。