11/4(土)

 大切な人たちに短い期間の中で何回か会うことへの不安は、その人たちへの想いが薄れてしまうからではなく、基本的に元気がなくて鬱々としている自分が表出してしまいそうだから、だということを考えた。出発点である不安はそのままであれどそれは時と共に変容していき、だからそれに至る思考は変わる、変わるということが正しくはなく、でてきた理由や思考が時とその間の自分によってその都度形取られていくといったほう近いのかもしれない。会いたい人には会いたいしそうして快い時間をすごしたい、身を委ねていたい、会って話がしたい笑顔を交わしたい。笑顔でなくともその人の話をきかせてくれるのなら、楽しさ嬉しさのみでなくその人自身の今をきかせてくれるのなら僕はうんと聞きたいし何を言えるのかはわからないけれどそれに相対した言葉があってほしいと思う。それがどうきこえるのかはわからないし傷つけてしまうかもしれないし距離を感じさせてしまうかもしれない。でも誰も今のその人であって距離と時間は過去の姿を留めさせないからどうしようもない。ただそれぞれの今の姿であっても過去による繋がりを今として保つことができたのならそれはまた新たな喜びで大切さの更新だ。そうしてあなたたちと繋がり続けることができるのならどんなにいいかと思う。現段階での私の生きていられる理由あるいは原因は、一人称の希釈への願望とその最中、そして大切な人たちである。大切な人たちの曲をつくる中で重すぎる愛はますます肥大化していてでも曲とそのための絵を描く中で、主観だけで見るとその醜さはほんの少しだけ、少しずつ剥がれている。

 人称の分裂は日記の話で、あなたもわたしもおれも僕も、その都度かわってそこでそうらしい人称を使用している。それが正しさなのかどうかは知らない。逃げでもいいよ、日記に任せてそのままでいたらいいよ。いいのか?日記ばかり書いて本当にいいのだろうか。10月が終わっていたから、エッセイを応募し始めてから始めた日記のカテゴリわけ、月一回するようにしたカテゴリ分けを先ほどしていたのだが、ほとんどの日記を「なんとなく」にわけてしまった。カテゴリについてはエッセイを書くにあったて最初に作ったもので、それはすぐにその意味をなくして幾つか作ったカテゴリの中でももう今はそのうちの三、四個しか使わない。そして多くは「なんとなく」に割り振られている。なんとなく好きかも思ったもの。「なんとなく」の次に多いのが「大切な人たちへ」だから、大切な人たちに対する感情から生まれた日記があることに安心する。憂鬱や不安で頭がいっぱいでもその中でその人たちを考えることができている。曲やらなきゃ。

 先ほどまで何を書いたかあまり覚えていないから良い具合に酔えているのかもしれない。ワインを飲み始めてからか頭はそれほどぐらぐらしていないものの足はふらついて、トイレに行くまでにくらっとしたついでにくるりと回ってみた。酔いの影響の比重は身体にふれている。でもその分思考回路も酒に浸かっているだろうから、まだまともであるという錯覚で書いておいた方がいい。他者依存的な私の書く日記には他者がいて、でも一人称の希釈という喜びに気がつくことができたから日記に介してしまう他者は変わっているのかもしれない。癒着した他者は剥がれずそれは思春期と共に卒業すべき自意識で、できなかったからそれは成長をやめずスピンオフか隠しルートか描かれなかったそれからのように続いていて愚かである。

逃げるようにして曲に向かって、その中では自分がいない心地になれるから好きだ。そこではおそらく一人称を携えない思考でものを考え曲やら絵やら文章やらの中にいられているのでずっといたい。自分であるのかとか自分なのかとか考えていた時期もあったが、もう自分が鬱陶しくてたまらないので自分がいない心地になれること、自分がいないなんてことは生きている間は起こり得なくてその状態になれることは死ぬまでないのだけれど、擬似的でも錯覚でも一人称が消えた中にいられるということが嬉しい。それは大切な人たちとあっている時もそうなのかもしれない。自分という意識の希釈、いたい時間生きたい時間の中にいるにはそれに沈むことができる対象との触れ合いが必要で、自分のみでそこに至ることは難しい。その対象は曲なり文章なりをすることだしきいたりみたりすることであるし誰かであるし、もしかしたら歩くとか洗濯物を干すとか料理をするとか掃除をするということでもあるのかもしれない。ドラマー的身体感覚、冗談めかしたすかすかの論理を説明する空想をしていた。最初は連動に意識が向いているが積み重ねていけばその意識は細分化され、叩くということのみになり、それの組み合わせとなっていく。自分への意識ももしかしたらそれに似ていて、自分が行っている行為、先に書いたそれらは自分で行なっていることではあるが、任せる委ねるなどといった意識が自分の行動や思考に対してすらはたらきはじめ、それは他人事の領域ににじりより、そうしてその行為の細分化が進み行為と自分が切り離されている錯覚に気がつかないまま沈むことができ、その中にいる自分の意識が希釈される、というこれもまたドラマー的身体感覚と同じすかすかの論理で、後から見返して何言ってんだろってなるのかな。

 こんなことを書いていた日記があり、私が日記を書いているという感覚ではなく、日記の中で日記を書いているという感覚の中にいられている時かがあり、その状態をそうと気がつけてからそれが私の生きたい今であることになって、曲やらなにやらの中にいるときはそれでいられているような気がする。大切な人たちと話したり会ったりしている時もそうで、快さに身を任せられているから一人称は希釈されている、あなたたちとの接触の喜びからその時間の私は出発していてそこでの会話に対する後ろめたさは薄らいでいる、だからあばらやの思考をつらつら語ってしまうしでもきいてくれたりはなしてくれたりすことに、というよりその今に身を委ねている。委ねられてしまっているから後から反省や後悔が生まれもする。

あなたたちの叫びやわたしが震わされる何某かの作品での叫びのようなもの。自らへ、それを通した世界への叫びのようなものがあり、それが何かを訴えることでも伝えようとすることでもなくとも、ただその姿だけで共振するようにして自らの内に発する熱がある。物静かで黙していようとも蹲って頭を抱えていようともさめざめ涙を流していようとも、その姿が、その姿に。これもまた非道な感性なのかもしれない。辛く苦しむ姿に惹かれてしまうのはなぜなのだろう。あなたも生きているとおもえるからなのだろうか。あなたもその途方もなさで立ち尽くしていると思えるからなのだろうか。内と外に際限なく続く膨張の間で圧迫され、動けない、動きづらい、あなたも、と思うからなのだろうか。

 最近こんなことを書いていてどうしてだろうと思っていたが、カテゴリ分けのための日記の読み返しの中で、僕もだからかと思ってしまった。僕もだからか。苦しさに苛まれ続けその苦しさは全て自分が原因であることに対して苛まれ続け、生きづらいのは世界ではなく世界を見る己自身なのだと苛まれて、もう手も足も出なくて、手も足もあるけど出す先は自分だからそれはただ自分でいることで、自分でいることが苦しさであるのならばどう足掻いてもで、じたばたした手足は空を切る感触しか得られない。内と外に広がり続ける果てしない膨張の中で圧迫され溺れて、でもその都度縋る藁のようなものがある。藁だからとっても生きたそうでよかったね、浮かびはしないけれど。浮かびはしないけれど縋れて、縋れたほんの一時の安堵にいつまでもいられる。一瞬でも瞬間の最小単位はその中に存在しているから、その単位に潜り込んでがしりと掴んで、い、生きられている!

 僕もだからかなんてことを思ってしまったが、苦しさ始め感情はその人特有のかたちで、似ていることはあるかもしれないが同じではない、触れられない。誰かがほんとうは何を叫んでいるのかはわからない。でも近さで伝わる温度がある?昔読んだ梨木香歩の小説の中で「シロクマが北極にいることを咎める人はいない」とかいていたし、最近読んでいるヤマシタトモコの「違国日記」の中で「私が何に傷つくかは私が決めることだ あなたが断ずることじゃない!」とかいていた。これらのようなものが自分の中に残っているのは惹かれているからで伝わる温度があるからということだったらいい。あなたの中の苦しみはあなたのものでそれは何かと比較するようなことではなく、あなたが苦しいのならそれは苦しい。でもこれは、その苦しさに何も干渉することができず何にも和らげることができないということにもなってしまいそうで、苦しみは尊重されるべきだと思うのにそれがさらなる苦しみを生んでしまいそうだから、困ってる。 

何にも苛まれず何にもとらわれず穏やかな中で生きていてほしい、生きたい今にいてほしい。そう思うのはそれが決して叶わないことだからだ。苦しいことから離れなければならない離れた方がいい、そこにいる必要はない、そう思うのはそれが決して叶わないことだからだ。離れられないことだからだ。どこにいようが何をしていようが身の丈にあった、あっているのかわからない不安は馴れ馴れしく肩をたたいて一方的な親近感、肩を組んできさえするかもしれない。一緒の布団に入ってへへへと笑っているかもしれない。あいつらはそうしている、感触のない接触と接近を続けて今でもそばにいる。ずっと一緒だよと小さな声で囁くことが日課だ。触れられないし聞こえないけれど、思考の盲点で泳いでいる。あいつらはずっとそばにいて、頼んでもないのに、困っている。

 日記の中では最近困ってばかりいるし不安を擬人化してしまっていたりするから、見返したらおもしろい。

 もふもふの犬と接したい。いつかインスタで流れてきた動画で、地下街をでかくてもふもふの犬が大勢走り回っていて「ほんとかよ〜」と言いながら笑っていた。そんな瞬間に出会えたのなら、しゃがみ込んで両手を広げてうわーといいながらぶつかられたい。食べられてもいい。