11/3(金)

 何を選んでも間違いであるのなら、間違いとまではいかなくとも何を選んでも後悔や反省や後ろめたさが頭を埋め尽くすのならばどう足掻いてもだ。どう足掻いてもなので間違いであると分かりながらも選びたい方を選んでしまうことになる。贅沢な不調を言い訳に白旗を振る。派遣先を変えてもらうぞ〜。

 贅沢な不調、やりたいことができないというのは贅沢な不調なのか。食事や風呂や洗濯がめんどくさいのはふつうで、生活に助けられてるなんて意味づけをしてそれができないと嘆くのは、贅沢な不調なのか。ケーキがないからパンしか食べるものがない!そう言っているのと同じなのか。パンがあればいいじゃないかパンで生きろよ贅沢言うな。でもパンだけでなくバラも求めようって書いてあった。それも贅沢か。パンはけそけそでしなびててもいいから両手いっぱいのばらを求めます。

 不調が贅沢ということに気がついてしまった日の日記。不調が贅沢だから怠惰な精神だけがぶくぶくと肥えている。選んでしまうことになる、しかないと言うことは断定的できっとそれだけではないからそう言えず、ことになる、と書いてしまう。ことになる、また他人事だな。どう足掻いてもではあるけどそればかりではないことは知っている、快いひとときの後日に埋め尽くされていることはなく、反省や後悔や後ろめたさがありながらも快さは必ずあり、多分それに生かされているし多分そうだから今の曲をつくっている。大切な人たちの曲、親愛なるあなたたちへ!動画に写真を使うのは気が引けるし誰がみてもここに写っているのは誰であるということがわかってしまうから絵を描くことになって、大切な人たちが映った写真を絵に描いている。そういえば僕は昔はお絵かき少年だったんだよなという貧弱な担保で描いているからそっくりそのままというわけにはいかず、でもその写真を知っている人がかろうじてわかるくらいであれたらちょうどいいなと思う。勝手に描いてしまってよいのだろうかこの写真は困るかなと悩んでもいたが、その人そのままにはならないし視聴率は高くないことを思い出したのでその悩みは無くなった。いっぱい描くぞと思っていたが全然描けないから予定枚数は少なくなったし描きたい人みんなは描けない、でも描き続けていたら曲を終わらせられないから仕方ない。自己完結的な愛で曲をつくっている。

 そんな人たちと過ごした快い時間の後は埋め尽くされていることはなく、楽しかったと余韻の中で呆けている時もある。でもやはり埋め尽くすまではいかないものの反省や後悔や後ろめたさは生まれていて、それにはムラがある。会話の一部分や振る舞いの一部分を思い出しては苦しくなるし、それを補うようにして無い会話の空想や言い訳めいた補足説明を頭の中で浮かべるもその救済行為はエセで誰も何も救わないし過ちは消えない。言葉にはカエシがついていて口から出た言葉も耳に入った言葉も元に戻ることはない。自分以外の感情の機微を知ることはできないが、無知は罪で悪意のない悪も罪だった、そんな過ちを幾度も犯して、ごめんね。反省や後悔や後ろめたさが生まれる原因である、大切な人たちやその場に対する自らのそぐわなさの意識は私自身の根の部分であり今に至る積層の下方に位置している。足元に近いから歩くたびに振動はその層を経由して私の今に至るから、私の今の中に生まれる熱にどうしてもそれが含まれてしまっている。私との会話の中で句読点のように「きも」という人はもう周りにいないし大切な人たちは尚更であるのに、私は私自身の気持ち悪さを拭えずにいて独り言の上位は「ごめんね」と「きもちわるい」である。それは大切な人たちに対してとても失礼なことなのに。笑って接してくれる話しかけてくれる話をしてくれる話を聞いてくれる隣に座ってくれる向かいに座ってくれる。私は気まずさが苦手だから快さに身を委ねてしまうけど、その中で一緒に笑ってくれる話してくれる。私のあばらやのような思考をだらだらと話しても一緒に考えてくれる、そこから何かを話してくれる、聞いてくれる、会話をしてくれる。それなのにそれなのに、去年の頭くらいに決めたこともあり、私はいまだに何かきっかけがないと話しかけることができない。私を私として接してくれる人に、私は自分のことばかりで気がつくことができていない。自身の後ろめたさばかりに気を取られ、それは断絶ではないのか?この後ろめたさの心性は消え去ることはないだろうしずっと一緒だよといつか言っていた。けれど、鈍く尖った内省の繰り返しはその人たちに背を向けているのと同じで、それはあたたかさを蔑ろにしているのではないか。その人の苦しみを見つめることを放棄しているのではないか。そう思うのに、そう思っていることもまたこの後ろめたさの内側の思考であり全て自分だ。大切な人たちの曲を、それはそうなのだけれどその愛は自己完結的で届ける気がないのだと思う。ずっとと決めてから日記に大切な人たちのことを書くことが増えて、重すぎる愛が肥大化している。この重さは、迷惑だ。迷惑だから、誰にもわかられないままわからないままの形であれてよかった。詩や歌にはなれず伝達や意味の色合いが濃いままの声を諦めたかたちで曲をつくれてよかった。

 でも伝えたさはあるままで、それが相手にどのような感情を運ぶのかがわからないから伝えられないで、わからない以外にもやはり僕ではないという思いがあるから、難しい。何を選んでもどう足掻いてもであるならば、とは思うがそれはあまり迷惑をかけないようにという前提がある。誰にもではあるし大切な人たちには殊更そうで、だから伝えたいことはあれど踏み切れない。どう足掻いてもであるならば何もしない方がいい、という結論がある、あってしまう。何も正しくないのであればその無行為もまた正しくないのに。でもどう足掻いてもだから、と堂々巡りであるから困る。

 でも最近あなたには考えていることや会話の中で生まれた流れのままに伝えることができている。それはあなたに対してやっと、自らのきもちわるさや後ろめたさを拭えてきたということなのだろうか。それとも、曲と共に感じた感動と展望があってしまったからなのだろうか。わからないけれど、それをきいてくれて話してくれるあなたが大好きである。後日の後ろめたさの中で「もう会ってくれないかも」「もう話してくれないかも」と思うこともあるのだがそれでも会ってくれるし話してくれて嬉しい!

 心性みたいなものと別の後ろめたさを感じているあなたには何もできなくて、でもいなくなってしまいそうで怖いのだけど、それが杞憂であればいいのだけど、だけど、どうなのだろう。