2月終わり頃〜3月頭らへん

「2023/2/26 束の間」という名前のプレイリストを止める。先週作った、日曜日に料理をしながら生活の実感に心身を預けるプレイリスト。いつからか日記みたいなプレイリストの作り方をしていて日付と一言の名前のプレイリストが溜まっている。料理をすることで得られる生活の実感、広い部屋によるどこかの充足が以前まで感じていた料理をすることや掃除をすることへの億劫さを排除し、実感を得られる生活の層の中に移行できている。その移行の際に段差や傾斜はなく気付けばそれに体重を少し預けていて、この実感の中では折り目のようになっている週末の朧げな不安は預けた体重と同じくらいだけ薄らいでいる。生活に助けられている。こんな感じのことどこかで読んだなと思って机に並べてある雑誌をぱらぱらめくったらあった。鍋を火にかけないと温まらない思想がある、どうやらそうらしい。洗濯物を抱え上げる時にしかわからない信念の重みも感じたい。預けた分薄らぐのなら、もっと生活と懇意になっていけばうまくいくさ。広い部屋は品の良い毒素で満ち満ちている。知っていてもたれかかった生活の角度に合わせて僕も傾いていきそのうち横たわる。ああそろそろか、もうこんなになっていたか、どんどん空が視界を埋めていく。橋も川もすすきも電車も見えなくなってぽかぽかした丸い熱と柔らかい風にあたりながら薄くなった青を見つめて、春の雲はどんなだっけと思いながら空だけを見る。春の雲はどんなだっけ。暖かさの中でまたいつかの春を思い出すのだろうか。いつかの春とはいつの春なのだろうか。気温が上がったからという理由のみでコートを着たり脱いだりしていた春かな。堆く積まれた何かと境目がちな記憶が持ち上げられていた春もあったが今年はまだそんなにない。どうしてこの生ぬるさを、まだ冷たい風の記憶が皮膚に残っている間にかすめていく初春の風を、近づいて大気のへりを滑らかにする日差しを、春の雲を、知らぬまま過ごさなくてはならないのだろうと思った。頻発するくしゃみと垂れる鼻水にしか春を思い出させられないのはどうしてだ。変な人が増える春だから、傾いて横たわって目を閉じてもなんらおかしなことはない。みんな変だから何しても大丈夫だ。陽気に目を閉じて幸せを祈ろう。

 ぴいと鳥が鳴いた、残響はぬるさに溶け少し湿って散り散りになっていく。粒の霧散が気になるくらいに音はない。暖かな日差しが首筋の線に沿って被さっている。春だった、春の雲はどんなだっけ、そう日記に書いていたことを思い出し空を見上げたい気持ちになるももう見上げられなかったので仕方なく春特有の記憶の持ち上がりに委ねてその中で春の雲を思い出せないか探っている時に、ひやりとした感触が被さる暖かさに水を差す。細い。それは鋭利であることを知っていた。波紋は広がらずただその鋭い線が首に触れ、切断のための薄い一線と自然的である人間の身体の曲線が合わさるわずかな面にのみ春の日差しと自らの体温がその鋭利なものに吸い取られていくのがわかる。研ぎ澄まされているそれによって冷たさと同時にちりりと痛み、ちょっと切れたらしい。その後すぐに冷たさは首筋を離れていった。そうだ、これは位置合わせ、目指す目標を確かめる、振り下ろす先と振り上げた切先の線を引くための動作だ。間も無く振り下ろされる。静かである、静寂をその身に宿しているのが伝わってくる。躊躇は見当たらない、冷たさの主は幾度も繰り返してきておりこの場での落ちつきが全て必要であることを知っている。穏やかに、しかし躊躇わず漲らせず振り抜くことが正しいこと。静かである。奪われたあたたかさは降り注ぎ続ける春の日差しに補われそこには少しだけのひりつきがある。切れているらしいそれのみでなく、静謐な視線と結ばれた線によって集まっている。要素は少ない。垂れた首筋、暖かな日差し、眼差し。春の雲はどんなだっけ。