10/22(土)

 MacBook Airを最近購入した。Macは買おうかなどうしようかなと少し前からもちもち考えていたがずっと決断には至れずにいた。使っていたパソコンがWindows8からしく、来年の頭にサポートが終了するという通知が開くたびにでできていたことと、その他諸々相まって購入に踏み切れた。届いた箱を開けるとスマートに包まれたMacが入っていて、軽くて薄いなと思った。匂いは何か嗅いだことのあるような化学的な匂いだった。最初の設定を済ませて、デジタル弱者な自分は何からやればわからずカーソルを画面の上で遊ばせていた。まだGarageBandはてなブログとPagesとプライムビデオとApple Musicくらいにしか使っていないけれど、操作性が気持ちよくてはしゃいでいる。さくさく動いて気持ちがいい。開けたらすぐに立ち上がって、アプリやサファリも選択したらすぐ開いてくれて、のったりしたパソコンやスマホを使っていたからその速さに追いつけていなくて呆気に取られている。届いて開いたら速すぎて、滑らかなボディを撫でながら謝ってしまった。これからである。何かやろうとする意識に時差なく、それどころか追い越すくらいに対応するこの機械はとてつもなく偉大なもののはずなのだけれど、自分の時代遅れの脳みそが処理しきれていない。馴染ませながら偉大さを感じていきたい。前のパソコンと比べてしまうのは忍びない。なんたって大学入学時に買ってもらったものなのだから。もう七年前?malegoatのシールが貼ってありimaiの「Fly」のジャケットの餅がデスクトップの壁紙になっているそのパソコンは押入れで眠っている。

 キーボードの感触と音が気持ちよくて日記が捗っている。気持ちよさと快調な動作性に引っ張られているような気もするが、書けたらなんでもいいのである。パソコンで書くのも悪くはないどころか、こっちの方が良い気さえする。どこにでも持っていきたいけれど、盗まれたら困る。どちらでもかけたらいい。

 久しぶりに自分でオムライスを作った。前に読んだ漫画の中で、卵は湯煎で作ると濃厚になるというようなことが書かれてあったのでやってみると、本当に濃厚になってびっくりした。じっくり温めるとタンパク質が固まる前に水分が蒸発するから濃厚になるらしい。チーズを入れてるみたいだった。美味しくて嬉しい。多分皆んな気づいていながらも独り占めしたくて大っぴらに言っていないことだと思うのだけれど、オムライスはビールに合う。美味しい。オムライスがある居酒屋やバーはそれとなしに伝えてくれていた。

 Macの画面は綺麗だというので、少し前に見て感銘を受けたアニメの「平家物語」をまた見返している。5話が印象に残っていてそこから見返している。橋合戦の最中で流れる曲が場面と溶け合っていてよかった。また徳子の強さが現れ始めたような回でもあった。あの辺りから、オープニングの序盤で少しだけ映る、徳子が下を向いて微笑みながら両腕を少し広げる映像が回を追うごとに、徳子の纏う狂気とも言える強さを感じさせるようで毎回その瞬間が自分の中で広がりを持っていったことを思い出した。また最後まで見返したい。ボロフェスタを見に京都に行く予定なので「平家物語」や「犬王」ででてきた、棒に刺さった餅のようなものを食べてみたい。あぶり餅というそうな。本当かどうかはわからない。

 八月の頭に今住んでいる街に引っ越してきてからちょこちょこ立ち寄る本屋で、少し前に読んだ「宝石の国」が気になっていてそれを探していたところ、その単行本とともに作者である市川春子の作品集も置いてあった。「虫と歌」という作品集を購入してえらく震わされた。「日下兄弟」という話がとても好き。作者のことを調べてみたところ、高野文子という人に影響を受けていたらしく、その人は「平家物語」のキャラクター原案を手がけていたらしくてびっくり。繋がりがあってうきうきする。

 七月の三連休に法事があったので実家に帰った時に、父が六千円分くらいのクオカードをくれたので、以前住んでいた町で意気揚々と本屋に向かって漫画と本を抱えてレジに向かったら、クオカードに対応していない本屋だった。今買えば次に買う本は六千円分実質無料という謎理論を頭の中で組み立てて、その後立ち寄る本屋では気になっていた本や漫画をどしどし買った。「映像研には手を出すな!」という漫画を、NHKでアニメが放送されていた時に見ていて好きで、アマゾンプライムで配信が終了するということだったので全巻買った。「群像」という文芸誌の十月号に「弱さの哲学」という特集が組まれているということを知ってそれを買ったのだけれど、その特集内に掲載されていてた片瀬チヲルという人の「カプチーノ・コースト」という小説がとても好きだった。

 少し前にきいた寺尾紗穂の「良い帰結」がとても良くて、何回もきいていた。それからというもの寺尾紗穂は度々作るプレイリストの常連になっている。「境界」と「立つことと座ること」も好き。唾奇×Sweet Williamの「Good Enough(feat. kiki vivi lily)」も気持ちよくてよくきいてた。多分そらでうたえる。歌えはしない。

 僕の声は僕の曲にはならない。「ある瞬間」という曲をつくっていた時に、その前につくった曲をあんなにも叫んでいたのに、ライブに向けてあんなにも叫んでいたのに、その曲をつくる段で全然叫べなかった。この曲はどうにもならない、どうしようかと困り果てていた時に気がつけた。僕の声は僕の音楽にはならない。気がつけたことだ、ようやく落とし込めたことだ。また始められた。気がつけたあたりだったか、もう一本のギターを考えられ始めれた。へなちょこではあるものの、自分の中で進められたことは少し嬉しかった。気づけたことによって、歌への憧れはくっきりとしたものになって、前よりもっと歌や歌声に感動を得られるようになったように思う。敬意を抱く人たちの歌を、あなたたちの歌を、もっと正直に受け止めて正直に震わされるようになった。憧れは憧れとして、その形で携えられた。無知ゆえの憧れ、自由さを見出してしまう、喉から紡ぐ自由さを。生まれ持ったものと言い訳を振り回しながら逃げているような気もするけれど、きっとその中にいる人は全く違うことを感じているのだろうけれど、諦められた。音やメロディを持たない自分の言葉を、持たないものとして認識できた。気づく前は多分捻くれていて、なれない言葉に負い目のようなものを感じていたのだと思う。でも抜け出せた、ちゃんと立てている。声が、歌が、歌詞が、素敵で好きで、憧れている。憧れになれた。素敵だと言える、とってもいいなと言える。とってもいいな。もっとききたい!どこにも当てはまらない声、確かに感じるずれ、あの曲をつくる中でようやく諦められた。また始められた。あなたの声が、歌が、もっとききたいな。

 しゃきしゃきしたMacに書かされている。速くてハキハキしていて、きっと社会でうまくやっていけるのだろうな。社会は速くてハキハキしている人が好きみたいだから。遅くてもぞもぞしている僕の代わりに働いておくれ。