2/28(月)

 今日みたいにいつもと違って動き回って忙しい仕事の日は、考え事をしないせいでその時間だけは心の波が平坦である。しかし、仕事が終わると、それまでの時間を取り戻すかのように波が荒ぶり始める。甘いものを買って帰った。何を買いたいのかすらわからない自分にコンビニで叫び出してしまいたくなった。帰宅してからいつものようにぎゅっと固まる時間も、少し長かった気がする。生まれ続ける、それを抱きしめよう。

 

 確かな間違いを犯した側が、交渉の場で有利に立つそうだ。理屈は理解できるけど、全然納得いかない、いくわけがない。一方的な破壊行為を先に行なった方が勝ちなの?馬鹿げている、どうしようもなく、憤りと悲しみが濃く混ざる。なぜそちらに歩み寄らなければならないのか、なぜ願わなくても良いことを、願うことなんてない方が良いことを、ただその一点のみの条件を提示して削らなければならないのか。納得なんてできっこない。ほんとわけがわからないよ。ああ、武器を提供するべきなのだろうか。それは本当に正しいことなのだろうか。確かに一方的に侵略されるわけにもいかない、それを黙って見ているわけにもいかない、何かしなくてはならない、けれど、その過激さを助長させてしまうようなことをして良いのだろうか。願う平和、そのために行うことが戦うための道具を与えることであってよいのだろうか。戦わなくてはならないのだろうか。戦わなくてはならないのだろう。遠くから眺めているだけの自分には到底理解できない状況が広がっていて、その中の選択があるのだろう。狂気と呼べるものだと思う。そこに関わるすべての選択が。戦争だけじゃない、あらゆることは他の点から見ればどこかしら狂っているものだとも思う。戦争も、自殺も、仕事も、運転することすら、ある点から見たら恐ろしいことだろう。狂ってる、皆んな狂ってる、自分を含めて。

  

 満たされない方が良い、常に足りない渇き、それがいい。でも、それは満たされることに向けて歩いているからこそ生まれるものなのかもしれない。何もせず、足りないなんて、じゃあ何かしろよということじゃないか。ずっとずっと進み続けて、それでもなおその状態にいることが、求めていることなのかもしれない。であるならば、やるべきことやりたいことをやっていかなくては。

2/26(土)

 どんな経緯があれども、何かの脈絡の先にその決断があってはならないだろ!経緯も道筋も理由も繋がっているようではあるが、その事実、戦争や今回のような侵攻は、どこからも独立している確かな間違いであるはずだ。国という大きな単位を担う人達、その大き過ぎる単位の決断によってその単位の中に存在する確かな一人達の存在は淡いものにされている。なんで、どうして。多大なる破壊や死や痛みなんか人為的に起こしていいはずがない、そんなものはただ流れる自然の中にあるもので手一杯だ、それすらも悲しいのに。避けられるべき、起こらない起こしてはならないということが絶対的に前提にあるはずだろう。なんでだよ、理解なんて示すなよ、その決断のみは断固として拒絶するべきだ、あってはならない。この決断を行った彼の中にはきっと自分が想像もできないような背景が、のしかかる重責や煩悶、積み重なった時間があるのだろけれど、その中で、ああ、その決断にいたることは、なんで。

 

 抗い続けなければならない、夜勤の掃除が終わっていつもは食べないカップ麺を食べ、丸い背中で外を歩いている時に考えた。なんとしても、その確かな間違いには抗い続けなければならない、自分の生を鳴らさなければならない。そして、今自分が向かっているところは一人で行かなくてはならない。一人でもできる曲をつくろうか、そう思った。その確かな間違いに断固として抗う曲、そしてその間違いというのは、自分の向かっているところにも当てはまることなのかもしれない。向かいながらも抗うのか、死の影の生を見つめる、それは抗うというのとは少し違う気もする。しかし、他者から見ればそれは確かな間違いではあるはずだ。その確かな間違いの中で、叫ぶ。煮詰めたりほったらかしたりして考えよう。

 

 今はただ、いやいつでも、この今をこの今の生を叫び鳴らすのは変わらない。悩め悩め、この懊悩が迷いが、全部全部が、闇へと飛び込む力をくれる、全て引き連れて進むんだ。もっといい、もっと良くなる、もっと吐き出せる、感情を全てこの音の一つ一つに重なりに、滴り落ちるほど染み込ませるんだ。足りることはない、ただただ沈んでいく。

2022/1/29(土)

 昨日の夜勤中、海老が食べたいなと思った。ぷりぷりのえび、今日の夜はえびを食べながらのもう。エビマヨがいいかな、エビチリもいいな。エビフライでもエビしゅうまいでも良いかもしれない。なにはともあれえびだ、えびをたべよう。そんなことを考えながら夜勤を終え、今日の朝に帰ってきてお昼まで寝て、図書館に行ってスタジオに入って、今はエビタルタル巻き寿司とエビチリを食べてのんでいる。その時の衝動はその時に行うのが1番のようで、どちらのえびを食べてもどこか肩透かしを食らったような心持ちだった。美味しいのは美味しいんだけれど、なんだかなあ。食べ終えてビールを飲みながら外でタバコを吸って戻ってきた。玄関の扉を閉めて部屋に戻る時、なんだかとても大切なことを考えていたようなそれを忘れているような気がした。なんだろう、なんだろうか。うやうやと考えながら、今日録画したギターの動画を以前録画していたドラムの動画にくっつけてきいてみる。今日は3時間みっちり入ってギターを録り終えて動画を完成させるぞと意気込んでいたものの、結局完成できず。隣の部屋のB'zのコピーバンドの音がうるさくてその音をギターが拾っていたのか、繋いだアンプから元気な歌声が流れてきていた。うるせー!と一人で怒鳴っていた、監視カメラから見える映像はさぞ滑稽なものなんだろうな。でも3時間も入ってひたすらギターを弾いて歌詞を叫んでいたら、曲への浸透具合は良いものになってきたような気がする。明日こそは。

 さっき考えていたことは何だったのか、忘れ物を取りに行くようにまた外にタバコを吸いに出る。飲んでいるのはビールではなくて、牛乳にラム酒を混ぜたもの。ここ何ヶ月かは寒いから温かいものがのみたくなる。コーヒーにラム酒を混ぜたものや牛乳にラム酒を混ぜたものを温めて飲んでいる。結局考えていたのは何か分からない。雲が筋状に広がっていて綺麗だなとか考えながら戻ってきた。考えることを残したいけど残そうとする段階で既に過去何だよな、困った。今日は本当はTOONICEにSEMENTOSをみにいこうと思っていたのだけれど、今年に入ってからか入る前からかコロナがまた爆発的に広がっているから怖くて行けなかった。行きたかったのに行けなかったのと何だか約束を破った気がしてどんよりしている。兵庫に派遣先が決まってから、LOSTAGEの各々が働いているお店へ行くLOSTAGEツアーを目論んでいるものの、結局行けずじまいでいる。困った。早く行きたい。

 お酒を飲んでいると時間はあっという間に経ってしまう。SEMENTOSの藤村JAPANのnoteに面白かったと書いてあったので、少し前に國分功一郎著の「暇と退屈の倫理学」という本を読んだ。その中で、ユクスキュルという理論生物学者が「人間にとっての瞬間は18分の1秒である」と述べていると書いてあった。映画も1秒間に24コマのスピードで動かしているらしい。高校生の時に読んだミステリー小説でサブリミナル効果のことが書かれてあって、たしかそこには、ビールの売り上げを上げるためにその1コマにビールの映像を写したとかなんとか、それでビールを買い求める人が殺到したとかなんとか、そしてそれをすることは禁止になったとかなんとか。人間が感じられる瞬間以下のものを人間は感じてしまっている?視覚だけの話ではなく、人間のあらゆる感覚が感じられる最低限の瞬間だそうだ。ということはBPM540以上をを8分で叩く音は、断続的な音ではなくダーっというような伸びた音に聞こえるのだろうか。きいてみたい。そんな瞬間なんて気付けるはずもなく、ましては酔っ払っている今は尚更、瞬く間より早く過ぎてそのグラデーションの中にいる。寄って感じて生きたい。近づけるとこまで近づきたい、人間が感じられる瞬間以下の瞬間も確かに存在しているようだ。はて。

 0時42分、充電の残りも丁度42%だ。今日は3時間ほとんど録画するためにiPhoneをつけっぱなしだったからスタジオが終わる頃には充電は1桁だった。そろそろ新しいものに変えたいなと思いながらかれこれ数ヶ月。たいした不具合もないしこのまままた新しいiPhoneが発売されそうだ。

 寒い、今住んでいるところはとても田舎の山の方で、この季節に雪が降ることはあまり珍しいことではないようだ。何度か積もってははしゃいでいたり車の運転は大丈夫かなと心配したりしている。チェーンを買えば良いのだけれど、地元も高知も雪があまり降らなかったから雪を舐めている節があるようだ、まだ買っていない。後1ヶ月弱耐えれば大丈夫だと楽観的に考えている。どうだろうか。

 最近はほぼ毎日日記を書いている。良いことだと思う。

 ハロー、皆様いかがお過ごしでしょうか。温かい格好をして寒さに凍えていなければいいな。

 

1/7(金)

 こうやって日記に記すのも、積み重ねてきた考えから曲をつくるのも、一つの観測点にすぎない。考えることすらそうだ。何かに対し目線を向ける、そうすると否が応でも見えないものはでてくる。それが強いとか弱いとかそんな話ではなくて、全てを見ることなんかできない。きくことも、感じることも、難しい話でしょう。ちゃんとやってる、日記も曲も、これだというものを捉えているつもりだ。しかし、それが全てな訳がない。重ねてきた考えが積み重なって生まれた一瞬を捉えているだけ、点にすぎない。その点をできるだけ捉えてこの生の軌跡を見つめたい。だからやるのだ。過去の日記を見返してもやはり、その時に考えたこと全てなんか残せていないし、できた曲の歌詞にも現時点から見た差異は少なからずある。だけれども、やはり残したからには大切なことなのだと信じたい。今思えばもっと残しておくべきことがあっただろうなんてこともあるけれど、やはりそれが選んだものだ。飾っても偽ってもない。こればっかりはどうしようもない。点にすぎない。

 

 いつ何時でも、何かを媒体として残す時点でそれは過去のもので一部のものだ。だからといってそれを諦めるとかしないという理由にはならない。点でしかないとしても、発したい残したいと思うからには、目一杯その点を強く打つしかない。その点をできるだけ多くして、滑らかな曲線を描きたい。肯定してもらえたことなら尚更、思うように打っていきたい。

2021/12/4(金)

 あの人は何年も前から表現と向き合っている。あの人もあの人も、尊敬する人達はきっとみんなそうだ。敬意を払わなくてはならない、そんなことを考えてはいたけれど、本当の意味ではわかっていなかったんだな。今をいくつも重ねてきてその積み重ねの先の今をつくっている。その厚みが、自分が認識もできないほどの積み重ねがある。その積み重ねが良さとなって現れているのだろう。自分はまだまだだ。まだまだすぎる、曲をつくりたいと思って、行動に起こし始めてまだ3年ぽっちしか経っていないしつくった曲も今のところ5曲とそこら。なんだか悲しくなるな。精一杯今を吐き出している、そうしてはいるけれど、厚みなんかない。初期衝動とも言えるかどうかな代物だ。プスプスと燻っていたものに火をつけ始めてようやくついたところなのではないか。燃え盛る業火ではない、そんな気がしているだけ。小さい火を近くで見て大きく感じているだけ。でも、こうやってがむしゃらに今を切り取って詰め込んで吐き出して、そういうものをやり続けてそれが重なり続けて良いものになるはずだ。今を吐き出し続けなければ厚みなんか生まれない。とにかくやらなくては。そして、時間なんかないんだ、だからとにかく注ぎ込み続けなければ。遅れた分を取り戻さなければ。必要なものを確実に選び取っていかなくては。よいものをつくりたいのなら。つくっているものは作り始めた段階で既に過去だ、急がないと。でもおざなりにしてはならない、ちゃんとその今を今であったものを確実に形にしなければ。早くしないとどんどん遠い過去になっていくけれどその想いは確かに今感じたもので本当だ。全部本当なんだ。そこを自分で信じられなくなればおしまいだ。ちゃんと自分で考えて感じたものなのだ。だからこそ形にしたいし吐き出したいんだ。そういう今を生きているのだ。生きたいのだ。時間は瞬く間なんかより早く過ぎ去っていく。考えもどんどん更新されていく。これだと思うものを逃してはならない。一度逃したら次から次へと溢してしまいそうだ。発したいと思うこと吐き出したいと思うこと大切にしたいと思うことそういうもの全てをちゃんと掴まないと。今を生きないと。生き急げてなんかいない、間に合ってなんかいない、鋭く尖った矢はどんどんと先を切り裂いていっていて、その後ろをなんとか追いかけるので精一杯だ。

2021/10/16(土)

 言葉よりも、音よりもまず先に、この感情がある。でも何かを媒体にしなければその感情を外に出すことはできない、もどかしい。それは言葉や音であったり、絵や叫び、踊り、映像、何か。その何かに落とし込む段階で、その何かの形式に縛られてしまう、形に嵌め込もうとすることでその形から溢れてしまうものがある気がする。外に出す途中で欠損してしまう。その欠損を少しでも無くすために、その何かの精度を向上させなければならない。自分の場合は、今のところ音楽とこの日記、なんとかこの感情を少しでも漏れなく吐き出すために、使う言葉を音を、使わない言葉を音を選びたい。選ぶための力をつけたい。考えたい、考え続けていたい。ずっとずっとずっと、そうしていたい。

 

 単調のように見える日々、その中でひっくり返す、ひっくり返ることを望む、それは感動や情熱を傾けるものを見つけた瞬間なのか強烈な生か死か、どっぷり浸かりたい願望か、人生の岐路か、何かの瞬間。縛られることへの反抗、しがらみを解く、固定観念の破壊、暗黙の了解へ唾を吐く、思い込みとの決別、孤独への旅、小さな点、多数を殺す、声の切り捨て、必要なものだけを選び取る、もどかしさをなんとか吐き出したい。

 

 多分最近、すごい尖ってしまっているなと思う。自分のつくるものが素晴らしくいいものと勘違いしてしまっているんじゃないのだろうか、だとしたら思い上がりもいいとこだ。何かに縛られることがすごくくだらないしそうありたくないと思っているけれど、そう考える時点で縛られているんじゃないのか?本当に縛りをほどけていけたのならば、もっと自由で気楽で優しくて穏やかで寛容になれるのではないのだろうか。いや、どうだろう。自分の信じるものがあるのならば、少なからず排他的というか、その他のものにある種の苛立ちや嫌悪感は抱いて然るべきなのではないか、強く信じるのならば。だからこそ宗教間の争いはやまないし戦争は起き続ける。当然のことなのかもしれない。見たいものばかり見て信じたいものばかり信じてしまう、どうにかならないものか、あー、わけわからくなる。

10/8(金)

 今日もスタジオの重たい扉を開ける。あー、今はつくっていた曲をYouTubeにあげようとしていて、ドラムがいい感じで撮り終わったので今日からギターと歌を練習している。ギターはやっぱりまだまだへなちょこでなかなかうまくいかないし歌も、歌というかメロディは無くて歌詞を読んで叫ぶだけだけど、マイクに向かうことに慣れていないからうまくいかない。あー、でも、今日は時間の許す限りひたすら弾いて叫んでを繰り返していたけど、自分のものがちゃんと自分のものになってきている気がする。自分の中では、つくるだけではまだなのかもしれない。こうやって自分で練習して演奏して、吐いては詰めてまた吐いては詰める、この繰り返しでその曲の気持ちや意味や想いを確認して染み込ませて自分のものにしていっているような気がする。今日もギターを弾いていたけれど、ドラムのテンポ感と微妙に違っていた。でも練習するにつれて、そのテンポ感は一致していった。自分の中で納得のいく形に近づいていけているのかもしれない。こんな方法、もどかしい、時間がかかるしお金もかかる。こんなに時間をかけてたら気持ちが腐ってしまうのではないか?怖い。でも、今やってる曲もつくったのは去年とかだ、けどちゃんと吠えれる。まだまだ自分の中にある、その時の渦巻く感情は残っている。無くならない、無くしたくない、今のところは。こうやって吐いて詰めて繰り返していけばいつかは吐いてそのままの時が来るかもしれない。そうなったらそうなったでかまわない、またその時は別のものが生まれているはずだ、そうあってほしい。心なんて流動的なものだ。あー!蹲って叫びたい、どうにもならないこの感情、無くしてはならない、苦しんでもがけ!全て肥やしだ!あの人の新しい曲はとてもよかった!すごい!羨ましい、どんどん溢れてそれを形にして発して、自分もあれくらいのスピード感で発したい、スピード感が足りないなと思う。でも腐ってなんかいない!ずっとある、あり続ける!納得のいく形、自分がこれを選んでそうしようとしているからには、今そう思っているからには、そうしないといけない!スタジオ、2時間で2千円弱、片道1時間弱、100回我慢したらMacBookといいドラム音源といいオーディオインターフェースなんて余裕で買えるんじゃないか、でも100回も我慢なんてできないしそんなことしていたら腕も心も腐って鈍って結局どうにもならないよ!自分が今持っている表現のための手札、ドラム、ギター、言葉、たどたどしくても不細工で不恰好でも今を残せるのなら発されられるのならば、やっていきたい。でも早くしないと、間に合わないよ。死ぬまでずっと間に合わない、間に合うことなんてない方がいい。終わりなんてどうせ唐突で一瞬だ、その瞬間にその後悔があったら、そしてその瞬間に終わることができなければ、その後は今よりもっと良く生きられるはずだ。でもその瞬間、本当に本当にやっと終われるなんて思ってしまったらどうしよう、そして終わることができなければ、その後はどうなるのだろうか、なんて妄想、馬鹿みたいだ、妄想ばっかりするな、気持ち悪い!あー!もどかしい!早く早く形にしたい。形にしたいというのは、自分の中でつくっておわりということではないのだろうな、こうやって何かに乗せて発信したいと思っているということは、自分のものを人目につくようにすることが形と思っているのだろうか。なんでなんだろう。自己満足のはずなのに、なんでなんだろう。あー!あー!あー!と文字にしたって叫べない、あー!