2021/10/16(土)

 言葉よりも、音よりもまず先に、この感情がある。でも何かを媒体にしなければその感情を外に出すことはできない、もどかしい。それは言葉や音であったり、絵や叫び、踊り、映像、何か。その何かに落とし込む段階で、その何かの形式に縛られてしまう、形に嵌め込もうとすることでその形から溢れてしまうものがある気がする。外に出す途中で欠損してしまう。その欠損を少しでも無くすために、その何かの精度を向上させなければならない。自分の場合は、今のところ音楽とこの日記、なんとかこの感情を少しでも漏れなく吐き出すために、使う言葉を音を、使わない言葉を音を選びたい。選ぶための力をつけたい。考えたい、考え続けていたい。ずっとずっとずっと、そうしていたい。

 

 単調のように見える日々、その中でひっくり返す、ひっくり返ることを望む、それは感動や情熱を傾けるものを見つけた瞬間なのか強烈な生か死か、どっぷり浸かりたい願望か、人生の岐路か、何かの瞬間。縛られることへの反抗、しがらみを解く、固定観念の破壊、暗黙の了解へ唾を吐く、思い込みとの決別、孤独への旅、小さな点、多数を殺す、声の切り捨て、必要なものだけを選び取る、もどかしさをなんとか吐き出したい。

 

 多分最近、すごい尖ってしまっているなと思う。自分のつくるものが素晴らしくいいものと勘違いしてしまっているんじゃないのだろうか、だとしたら思い上がりもいいとこだ。何かに縛られることがすごくくだらないしそうありたくないと思っているけれど、そう考える時点で縛られているんじゃないのか?本当に縛りをほどけていけたのならば、もっと自由で気楽で優しくて穏やかで寛容になれるのではないのだろうか。いや、どうだろう。自分の信じるものがあるのならば、少なからず排他的というか、その他のものにある種の苛立ちや嫌悪感は抱いて然るべきなのではないか、強く信じるのならば。だからこそ宗教間の争いはやまないし戦争は起き続ける。当然のことなのかもしれない。見たいものばかり見て信じたいものばかり信じてしまう、どうにかならないものか、あー、わけわからくなる。