3/18(土)

 少し前まで狂ったように食べていたパスコのタルトを近くのスーパーで見つけてしまった。ほぼ毎日食べていた、週末に買いだめして仕事が終わって帰ってからたばこを吸ってタルトを食べることが日課のようになっていたそのタルト。スーパーノアのドラムの人がツイッターで呟いていておいしそうだなと思って近所のスーパーで探したらあった。それからそれがおいしくて食べまくっていた。Mitasare Sweetsと銘打っているように大きくて甘くておいしいタルト。百円少しで買えて大満足のタルト。味のバリエーションもいろいろあって、エッグタルトとかフロランタンとかティラミスとかチーズとか、どれもおいしくて手当たり次第買っては仕事終わりに貪り食っていた。去年の夏頃に職場が変わってからは引っ越した先の近くのスーパーでの取り扱いが少なくて、生活の流れも変わりあまり食べていなかった。また先月から新しい職場に変わって近くのスーパーで探してみたものの見つけれられていなくてもうすっかり忘れていたそのタルトが、先週パンのコーナーに陳列されているのを見つけてしまった。ふわふわのパンが食べたいなと思っていて明日は朝にパンでも食べるかなと思いながらパンのコーナーを物色していたところで、見つけてしまった。タルトが、ある。包装が変わっていて透明になっていた。タルトがある!衝撃的で少し固まった。種類は少なかったものの食べたことがなかったキャラメルタルトがあってすぐさまかごに放り込んだ。もう今すぐにでも食べてしまいたかった。部屋に帰ってせかせかと買ったものを冷蔵庫に詰めた後慌ただしく封を切っていつかのように貪り食った。ばくばくばくと、しっとりしすぎていなくて油断していたらぽろぽろ溢れるそのタルトを食べていた。キャラメルタルトは中に固めのキャラメルソースが入っていて、満たされスイーツ。甘くて大きくて美味しい、透明になってもおいしい。肉体労働でへろへろになっていたからあんなに食べていたような気がしていたけれど、ちゃんと美味しいから食べていた、美味しさを思い出してしまった。昨日も研修終わりにそわそわしながらスーパーに行っておそるおそるパンのコーナーを覗いてみたらまたあった。先週には無かったピスタチオのタルトがあったのでそれとキャラメルタルトをまた放り込んで、食べながら帰ろうかと思ったが雨が降っていて傘と袋で両手が塞がっていたのでせかせかと帰った。甘いものをまた食べすぎてしまっているこの頃、消費カロリーと摂取カロリーのバランスは崩れてしまっているので着実に太っている気がする。

 レンタルしている冷蔵庫は毎夜不服そうな音を立てている。ぶううんきゅるると鳴いている。学生の頃に使っていたものと同じメーカーのその冷蔵庫は今日も鳴いている。ぶううんきゅるる、わたしこんなもの冷やしたくなかったのに。もっと冷やしたいものがあったのに。日曜日の朝ごはんになる予定の食べかけのアップルパイとか、張り切って作ったキッシュとか、しみしみのぶり大根とか、調味料に浸されてこんこんと眠る鳥もも肉とかゆで卵とか、たんまり作ったスパイスカレーとかおでんとか、ピクルスが入った手作りのタルタルソースとか、牛乳とか卵とかバターとか、ハーゲンダッツとか、サプライズの誕生日ケーキとか、瓶に入ったプリンとか、サンドイッチの具材とか、遅い帰りを待つシチューとか、明太子とか、蟹とか、パイナップルとか。ああわたしもっと冷やしたいものがあったのに、ぶううんきゅるる。ごめんねと返しても鳴くばかりで意思疎通は図れない、機械なので。ちゃんとハイボールは冷えていた。

3/11(土)

 最近はギターを手に取ると隙あらばClimb The MindかGlemlinばかり弾いてしまう。フレーズのレパートリーが少しだけ増えた。「Yes I Know,My Life Is Melting For My Job」はいつまで経っても指が追いつかないしタッピングは鳴らない。徳島ラーメンの箸が異様に重かった後に教えてもらったそのフレーズ、あれはいつだったろうと古いiPhoneに入っている動画を探してみたらもう3年も前の出来事だった。3年かかっている。3年かかった、何か聞き覚えのあるフレーズ、なんだったろう。10年かかって壊した、だった。ギターを始めた頃もどんなに難しいのかもわからず身の丈にあわない曲を練習していた。原点回帰?ベランダでたばこを吸った後に隣人がベランダにでているような音が聞こえた。文句言われるかもしれないとびくびくしている。

 ベランダの「最後のうた」が好き。2019年の春頃、滋賀での会社の研修が終わって大阪へ同期の人と戻る中で、一人だけ帰路を変更して京都にベランダのライブをみに向かった。磔磔だったろうか。開演時間には間に合わなさそうで走って向かっていたら、通りすがりの人に「めちゃ急いでるやん」と言われた。そりゃ急ぎますよと思いながらその言葉は駆ける速度に影響を及ぼさなかったのでドップラー効果が起きていた、ような気がする。息を少し切らしながらみたライブで、「最後のうた」がとてーも良かったことを覚えている。その後のホムカミもよくてその後の物販で、ライブで聞いて覚えていた歌詞を伝えてこれが入っているのどれですかと尋ねたら全て新しいアルバムの曲だった。後で知ったけど、全部日本語歌詞なのはあのアルバムが初めてらしかった。その日から最後のうたが好き。昨日最初のフレーズを真似してみた。こんなだったのか。解放弦使ってる。解放弦の魅力、アルペジオの合間に鳴る解放弦のあの揺れ、あれは一体何。

 健康診断を受けてから一週間たらずの先週の火曜日に電話がかかってきて、血液検査の数値が異常であると伝えられた。肝臓の数値が異常だったらしく、生返事を繰り返していた僕に電話先の人は少し興奮気味に、基準値が30くらいのところ600とか1000とかなんですよと伝えてくれた。余りの外れ具合に電話を受けていた食堂で600?と言いながら笑ってしまった。翌日に仰々しい封筒に入れられて送られてきた検査結果の書類には本当に基準値の20倍や30倍以上の数値が記載されており、誤診としか思えない数値に見るたびふふふと笑っていた。去年の夏頃に酔った勢いで買ってしまった人体大図鑑の肝臓のページには肝臓の再生能力は高いということが書かれてあって、まあ悪くても切ったら大丈夫かなんて考えていたりもした。肝臓は「沈黙の臓器」と呼ばれているらしく、異常があっても症状として現れにくいことからそう呼ばれているらしい。僕の肝臓も沈黙を守りながら疲弊しているのかなと思いながら金曜日まで過ごして、平日でも19時まで空いている消化器内科を見つけて金曜の仕事終わりに向かった。「めちゃめちゃ高いんですわー」と神妙な面持ちで病院の先生も言っていてとりあえずもう一度検査してみたところ、数値は激減していた。片方は正常範囲に戻ってもう片方はまだ倍くらいだったもののまあこれだけ下がってたら大丈夫でしょうということで、念の為来月もう一回検査をするということで終わり。先生も不思議そうにしていた。「この高かった結果は闇に葬ることになりますが」なんて言ってた。葬るなよ。牡蠣食べませんでしたかとかウイルスに感染するようなことはありませんでしたかなど聞いてきたけれどどちらも当てはまることはなくお互いに首を傾げていた。なにはともあれ、健康であったしドラムも叩けるのでよかった。今日も元気に酒を飲んでいる。

 秋頃から自炊が復活して、新しい職場になってからは弁当を持っていき始めたので本格的に自炊をしている。大学の頃に友人たちがくれた弁当箱を引っ張り出して使っている。齢26にしてシロクマの顔が印刷された弁当箱とオムライス柄の保冷袋とはこれいかにと思いつつ、まあ嬉しい思い出だしねということで毎日朝に詰めて持っていっている。変わり映えのない中身ではあるがお昼は毎日少し楽しみ。たーまーにーはなーれなーいことしよーうマリネ作ってみよーうと口ずさみながら作ったマリネが非常においしくて、最近は週末にマリネをどっさり作って弁当と晩御飯のおかずにしている。野菜が美味しい。大根が美味しい。チーズもおいしいけれど日を追うごとに溶けてしまうのでどうしようか。

 冬から春にかける時間の中で秋みたいな瞬間ってあるんでないのと思いながら気にしてはいたものの寒くて冬だったし暖かくて春だ。でも先月の終わり頃、通勤時に渡る川に気嵐が発生していたのはもしかしたら秋みたいな瞬間だったのかもしれない。

 

 少し前に詩人の大崎清夏が話をしているのを聞く機会があり、素敵な人だなあと思ってそれから詩集を読んだりホームページやnoteをみたりしている。新刊が少し前に発売されてちょうどその日に京都にライブを見にいっていたから次の日に京都の本屋で自分の誕生日プレゼントがてら買って帰ったりした。ホームページに載っていた「私は思い描く」という詩を先々週の土曜日に読んでいてその中の「私は思い描く、逃げのびたあなたの心を」という一節が、

 友達がいるにはいるが来る日も日記を書いているからあれはいつだったっけというのが割とわかってしまう。確かそうな気がしているが全然そんなことはなく地面がないところに立っていて踏み出した足がどこかにつくまでも、振り返ってからまた戻る間にも瞬間の最小単位でうつろい続けていて全て不知の現在である。慌てて先を憂いて今を知らない。疲れて眠りたい夜に汗だくで目覚めて渋々着替えてしまう夜は時々訪れてしまう。まだ一ヶ月だから。言い訳しながら今日も元気に酒を飲んでいる。嘆いて捨て垢を作って何か呟いていたあの頃の高校生は?覚えたての最後のうたを弾いている。ばちあーたりぼくはこんなひも、のんべんだらりとしている。

10/22(土)

 MacBook Airを最近購入した。Macは買おうかなどうしようかなと少し前からもちもち考えていたがずっと決断には至れずにいた。使っていたパソコンがWindows8からしく、来年の頭にサポートが終了するという通知が開くたびにでできていたことと、その他諸々相まって購入に踏み切れた。届いた箱を開けるとスマートに包まれたMacが入っていて、軽くて薄いなと思った。匂いは何か嗅いだことのあるような化学的な匂いだった。最初の設定を済ませて、デジタル弱者な自分は何からやればわからずカーソルを画面の上で遊ばせていた。まだGarageBandはてなブログとPagesとプライムビデオとApple Musicくらいにしか使っていないけれど、操作性が気持ちよくてはしゃいでいる。さくさく動いて気持ちがいい。開けたらすぐに立ち上がって、アプリやサファリも選択したらすぐ開いてくれて、のったりしたパソコンやスマホを使っていたからその速さに追いつけていなくて呆気に取られている。届いて開いたら速すぎて、滑らかなボディを撫でながら謝ってしまった。これからである。何かやろうとする意識に時差なく、それどころか追い越すくらいに対応するこの機械はとてつもなく偉大なもののはずなのだけれど、自分の時代遅れの脳みそが処理しきれていない。馴染ませながら偉大さを感じていきたい。前のパソコンと比べてしまうのは忍びない。なんたって大学入学時に買ってもらったものなのだから。もう七年前?malegoatのシールが貼ってありimaiの「Fly」のジャケットの餅がデスクトップの壁紙になっているそのパソコンは押入れで眠っている。

 キーボードの感触と音が気持ちよくて日記が捗っている。気持ちよさと快調な動作性に引っ張られているような気もするが、書けたらなんでもいいのである。パソコンで書くのも悪くはないどころか、こっちの方が良い気さえする。どこにでも持っていきたいけれど、盗まれたら困る。どちらでもかけたらいい。

 久しぶりに自分でオムライスを作った。前に読んだ漫画の中で、卵は湯煎で作ると濃厚になるというようなことが書かれてあったのでやってみると、本当に濃厚になってびっくりした。じっくり温めるとタンパク質が固まる前に水分が蒸発するから濃厚になるらしい。チーズを入れてるみたいだった。美味しくて嬉しい。多分皆んな気づいていながらも独り占めしたくて大っぴらに言っていないことだと思うのだけれど、オムライスはビールに合う。美味しい。オムライスがある居酒屋やバーはそれとなしに伝えてくれていた。

 Macの画面は綺麗だというので、少し前に見て感銘を受けたアニメの「平家物語」をまた見返している。5話が印象に残っていてそこから見返している。橋合戦の最中で流れる曲が場面と溶け合っていてよかった。また徳子の強さが現れ始めたような回でもあった。あの辺りから、オープニングの序盤で少しだけ映る、徳子が下を向いて微笑みながら両腕を少し広げる映像が回を追うごとに、徳子の纏う狂気とも言える強さを感じさせるようで毎回その瞬間が自分の中で広がりを持っていったことを思い出した。また最後まで見返したい。ボロフェスタを見に京都に行く予定なので「平家物語」や「犬王」ででてきた、棒に刺さった餅のようなものを食べてみたい。あぶり餅というそうな。本当かどうかはわからない。

 八月の頭に今住んでいる街に引っ越してきてからちょこちょこ立ち寄る本屋で、少し前に読んだ「宝石の国」が気になっていてそれを探していたところ、その単行本とともに作者である市川春子の作品集も置いてあった。「虫と歌」という作品集を購入してえらく震わされた。「日下兄弟」という話がとても好き。作者のことを調べてみたところ、高野文子という人に影響を受けていたらしく、その人は「平家物語」のキャラクター原案を手がけていたらしくてびっくり。繋がりがあってうきうきする。

 七月の三連休に法事があったので実家に帰った時に、父が六千円分くらいのクオカードをくれたので、以前住んでいた町で意気揚々と本屋に向かって漫画と本を抱えてレジに向かったら、クオカードに対応していない本屋だった。今買えば次に買う本は六千円分実質無料という謎理論を頭の中で組み立てて、その後立ち寄る本屋では気になっていた本や漫画をどしどし買った。「映像研には手を出すな!」という漫画を、NHKでアニメが放送されていた時に見ていて好きで、アマゾンプライムで配信が終了するということだったので全巻買った。「群像」という文芸誌の十月号に「弱さの哲学」という特集が組まれているということを知ってそれを買ったのだけれど、その特集内に掲載されていてた片瀬チヲルという人の「カプチーノ・コースト」という小説がとても好きだった。

 少し前にきいた寺尾紗穂の「良い帰結」がとても良くて、何回もきいていた。それからというもの寺尾紗穂は度々作るプレイリストの常連になっている。「境界」と「立つことと座ること」も好き。唾奇×Sweet Williamの「Good Enough(feat. kiki vivi lily)」も気持ちよくてよくきいてた。多分そらでうたえる。歌えはしない。

 僕の声は僕の曲にはならない。「ある瞬間」という曲をつくっていた時に、その前につくった曲をあんなにも叫んでいたのに、ライブに向けてあんなにも叫んでいたのに、その曲をつくる段で全然叫べなかった。この曲はどうにもならない、どうしようかと困り果てていた時に気がつけた。僕の声は僕の音楽にはならない。気がつけたことだ、ようやく落とし込めたことだ。また始められた。気がつけたあたりだったか、もう一本のギターを考えられ始めれた。へなちょこではあるものの、自分の中で進められたことは少し嬉しかった。気づけたことによって、歌への憧れはくっきりとしたものになって、前よりもっと歌や歌声に感動を得られるようになったように思う。敬意を抱く人たちの歌を、あなたたちの歌を、もっと正直に受け止めて正直に震わされるようになった。憧れは憧れとして、その形で携えられた。無知ゆえの憧れ、自由さを見出してしまう、喉から紡ぐ自由さを。生まれ持ったものと言い訳を振り回しながら逃げているような気もするけれど、きっとその中にいる人は全く違うことを感じているのだろうけれど、諦められた。音やメロディを持たない自分の言葉を、持たないものとして認識できた。気づく前は多分捻くれていて、なれない言葉に負い目のようなものを感じていたのだと思う。でも抜け出せた、ちゃんと立てている。声が、歌が、歌詞が、素敵で好きで、憧れている。憧れになれた。素敵だと言える、とってもいいなと言える。とってもいいな。もっとききたい!どこにも当てはまらない声、確かに感じるずれ、あの曲をつくる中でようやく諦められた。また始められた。あなたの声が、歌が、もっとききたいな。

 しゃきしゃきしたMacに書かされている。速くてハキハキしていて、きっと社会でうまくやっていけるのだろうな。社会は速くてハキハキしている人が好きみたいだから。遅くてもぞもぞしている僕の代わりに働いておくれ。

2022/6/14(火)

 くまもとけん、熊本県?その場所を聞いて、遠くということは理解できたけれどどこかわからなかった。そうか、九州か。

 今所属している会社で担当してもらっていた営業の人が異動になるということで、後任の挨拶のため仕事終わりにビデオ通話が行われた。軽い挨拶だけだと思ってすっかり油断していたが、主な議題はその人のではなく僕の異動に関することだった。担当してもらっていた営業の人はほとんど喋ることはなく、最後に手をひらひら振っただけで、最初から最後まで後任の人が僕の異動についてやそれに関する会社のことについて等をひたすら喋っていた。後任の人はがっちりとしていて話術が洗練されている、絵に描いたような営業マンという印象を受けた。幾度も繰り返してきたであろう、その場面に合わせた話の組み立てや伝え方の緩急が、灰色のマスクの真ん中を膨らませたりへこませたりしながらするすると流れ出てくる様に拍手を送りたかった。自分へ向けた話でなければいくらでも聞いていられるよ。

 異動先として挙げられた候補は、今住んでいる町の隣の隣町か、熊本県。ちょっと極端すぎやしない?先週会社のキャリアアドバイザーとやらに希望勤務地のいくつかを伝えた矢先での、その二つの候補だった。希望なんて聞いてくれるわけがない、今まで何度か経験したそれをまた繰り返している。そもそも希望を出せるような立場には昔も今もなれてはいない。僕にそれほどの社員としての価値はない。

 異動はしたいと思っていた。今働いている会社で特に問題は起こっていない。一緒に働いている人達からはある程度受け入れられているようではあるし、怒鳴られることもなく、世間話も少しはできている。どでかい失敗をすることなくなんとかやり過ごせている。でも、不安である。多分どこに行っても身の丈にあった不安は僕にもたれかかってくる、僕が勝手にもたれかかる。

逃げなきゃ、とも思えた。暗くて閉鎖的なここから逃げなきゃ、馴染ませられつつあるここから逃げなきゃ。逃げてどうする、他のところへ行って何とかなると思っているのか?こんなに考え事ができる時間がある仕事なんて多分ないよ。でももうその時間も終わる、来月からは終わってしまうんだもの。早くどこかへ行きたい。どこにも行きたくなんてないよほんとは。まだ結局どこにも行きたくないし居たくないんだな。自分でありたい、それはどこ?わからないまま唸っている。

 こんなことを4月の終わり頃に日記に書いていた。受け入れられることが少し怖い。ただずっと同じところにいることが怖いのかもしれない。未だにどこにも行きたくないし居たくない。でも本当は、どこにでも行けるようになりたいしどこにでも居られるようになりたい。そういう自分になりたい。どこでも自分でありたい。僕になりたい。僕が勝手に自分に巻きつけている一切のしがらみを解いて僕になりたい。なりたい、言ってるだけで、住む街すら自分で決められない、なんとも弱い自己だ。

 まだ決まったわけではない。多分、熊本県は餌のようなものなのではないだろうか。大きな会社、家賃と光熱費が0円の寮、一応希望していた事務職、良い条件にも思える。熊本県という点を除いて。とても大きな会社らしいから、僕は多分入れない、きっと競合他社との争いには負けてしまうだろう。そしてそのことを営業の人は分かっていて、会社の利益を上げるために異動はさせたいから大きな会社をちらつかせて、隣の隣町に異動させる。そこまで見据えているのかもしれない。熊本県に決まれば儲け、くらいなんじゃないかな。

 しかし、僕も異動はしたい。であるならば一応熊本県のことを考えなくてはならない。遠い、遠い。遠いと感じるのはどこから見た距離感なのだろうか。それは多分今住んでいる場所でもあるが、僕にとっての大切な場所と人達からというのが大きいと思う。Googleマップをピンチインして日本地図を見ると、現在地から熊本県までの直線距離の5分の1くらいのところに、香川県にあるお気に入りのうどん屋さんの印がついている。あんぐり。

 しかし、想像だにしていなかった遠くに行くことは、僕になることに近づく手立てになるのかもしれない。僕が望んでいたある瞬間の一つなのかもしれない。離れることで、もっと一人になることで、僕はもっと僕になれるのかもしれない。望む先へと近づけるのかもしれない。決意と訣別の印を背中になぞっている。まだない。決意と訣別が先か、印が先か。向かう先は決まっている。だからどこに行っても大丈夫だと思う。進む中できっとその瞬間を過ぎる。やりたいことやるべきだと思うことをもがいて行うことで、向かいながらその瞬間を待ち望んでいる。ある瞬間のいくつかは通り過ぎてその先にいる。

 話せなかった話ができるのかもしれない。毎日毎日日記を書いていて、書けば書くほど誰にも話せなくなっていて、誰かに会えば会うほど会えなくなりそうになっている。うんと離れてしまえば、話せるのかもしれない、会えるのかもしれない。僕になりたいこと、離れることは、過去や人をばっさりと切り離すことではない。むしろ逆だ。僕にとっての大切な人達、尊敬する人達、場所、ずっと大切だ。あなたもあなたも、彼も彼女も、ずっとだ。ずっとと言える理由が僕にはある。今思い浮かぶ人達皆、ずっとだ。僕が勝手に抱いているだけの感情。皆それぞれの大切をあたためて暮らしていると思う、そうであってほしい、その中にいてね。

 でも熊本県にはならないんだろうな。こんなことを書いてこちらにのせようとしているのは、気持ちだけは既に熊本県なのかもしれない。気持ちだけ熊本県でもこうやってのせようとすることができるということは、いつでもできるということなのかもしれない。

6/8(水)

 今の自宅に帰る最後の道は、片側一車線の真っ直ぐな道路だ。その先に山が見える。その山の一部分は、生えている木の種類が違うのかそこだけ緑が濃い。それを見て、「あの一部分とそれ以外の部分のどっちが濃かったんだっけ?」といつも不安になっていた。気温が上がるにつれてその濃さの違いは無くなってきていて、少しホッとしている。t-dat.hatenablog.cれ

 姫路に向かう高速道路や、四国に向かう高速道路には「動物注意」の標識がぽつぽつと掲げられている。その標識には鹿や狸のマークが描かれているのだけれど、その狸がとても大きなものがある。標識からはみだしてしまいそうなほど大きいやつ。大きさで動物が飛び出す可能性を表しているのだろうか。そうだとしたら、マークがとても小さいものもあるのかな。見てみたい。でも小さく描くくらいならそもそも標識はいらないか。

2022/4/15(金)

 少し前に、死とか生という言葉を使った日記をこちらの一般公開の方に載せたせいか、広告の欄に「死後は必ず地獄」だとか「利他は死の解決の手段」だとか「死は全てを破壊する」だとか、そんな言葉が安っぽい字体ででかでかと書かれてあるものが頻繁に出てくるようになった。そんな話をしているんじゃないしそんな話をしたいんじゃないよ。言葉の端っこだけを摘み上げてやいやい騒ぎ立てるのはやめてほしい。けど出てくるたびに少し面白がっている自分もいる。お、また来たな。鬱陶しい。

 去年の11月の終わり頃に姫路でbachoのライブがあって、それをみにいく前に居酒屋に立ち寄った。その居酒屋では平日休日関係なく、19時か20時まではビールもハイボールも300円くらいらしかったので。店内には少し前に流行った曲ばかり流れていた。今年の夏はどこいこうか〜とか、盗んだバイクで走り出す〜とか、レゲエ砂浜ビッグウェーブ!とか。レゲエ砂浜ビッグウェーブ!て誰の何ていう曲だったっけ、忘れた、ビギン?そこで頼んだチーズクラッカーに蜂蜜がかかっていて、とてもおいしかった。それからというもの家でお酒を飲む時は、トップバリューの安いクラッカーにトップバリューの安い蜂蜜をたらして食べている。甘くて美味しい。蜂蜜はもう2本目に突入していて、1本目を買った時に、こんなに入っているのに賞味期限までに使い切れるかな?なんて思っていたのだけれど、それもすぐに無くなり、2本目はワンサイズ大きいものを買った。でもそれも半分くらいになっている。クラッカーだけでなく、何にでもかけてしまっている。卵かけご飯とか、パスタとか。最近甘いものが食べたくて仕方がない。仕事から帰ってからは、タバコを吸って甘いものを食べることが習慣みたいになってしまった。パスコのタルトか、サク山チョコ次郎を食べている。会社のカバンには電子タバコとラムネが入っている。甘いもの食べないとやってられないよ。やってられないよ。糖尿病なんて言葉は知らない。今日職場の人に、覇気がないと言われてしまった。甘いものを食べていてもやってられていなかった、あれま!クラッカーには蜂蜜だけたらしていたけれど、ここ最近はチーズも乗せている。今日も食べている。QBBチーズの安いやつ。クリームチーズのやつとカマンベールチーズのやつが美味しかった。明日は多分モッツァレラチーズのやつを乗せる。美味しかったらいいな。湘南乃風だ、そうだった、睡蓮花だ。どうでもいいけど。

 現実は目も耳も塞ぎたくなるようなことばかり、動きづらい。どよどよと立ち込める。なんでなんだろう。

 前に高知に行った帰りにサービスエリアで買ったミレービスケットが今食べた分で無くなってしまった。これが無くなるともう当分食べられないのか、なんて思っていてなかなか最後の一袋を食べられなかったけれど、近所のスーパーの駄菓子コーナーに売ってあったので食べた。あのお菓子は自分が思っているより高い地位にいたのだな。おいしいものね。今住んでいるアパートは壁が薄いようで隣の人のいびきや話し声がうっすら聞こえたり、スマホの振動が響いてきたりする。自分の声やギターの音ももきこえてしまっているのだろうか。おあいこ。

 どうしてそんなに自分の殻に閉じこもろうとするの?その言葉が頭をよぎった。そうだよなあ、確かによくないことだよなあ。毎日日記を書くことが続いていて、それはそのことを体現し続けてしまっているような気がした。だからたまには、こういう風につらつらと意味のない言葉を綴ってこちらにのせたりすることをした方がいいのかもなんて思ったりした。少しでもその殻から、指先だけでも出さなければならないような気がした。風は冷たい。一昨日くらいまで暑いくらいだったのに、昨日今日とは肌寒かった。嫌なやつだ、春。桜のピンクはとんと見なくなった。もう木々は夏に向かっているようで青々しさが目につく。よく通る道には桜の木がちらほらあったけれど、今はもう散ってしまっている。ヒートテックを着ない日が増えた。夜勤ではまだ着ているけれど、日勤では着ていない。もう夜勤でも着なくなるのだろうな。パーカーの裏地のざらついたフワフワを感じて心地よい、そんなことを一昨年に書いていた。明日はパーカーを着てみよう。スタジオに行く。明日の予約を取るために、よく行くスタジオの空き状況をネットで確認してみたけれど、ほとんど空いていた。4月に入ってから空いていることが多くなった気がする。新年度だから皆忙しいのだろうか。自分にとってはありがたい。頑張って。

 ハロー、皆様いかがお過ごしでしょうか。花粉に悩まされてなければいいな。

3/4(金)

 抗っているのかもしれない。自分で勝手に限りをつけた生をもって、その輝きを増す死に。自分で勝手に輝きを増させている。それによってできる影が生だけど、逆なのか。生の影を濃くすることによって光を強くしているのか。辻褄が合ってしまう。確かな間違いに抗い続ける。そこに向けて歩みながらも抗っている。頭の中は自由でいい、現実に照らし合わせる必要なんてない。太陽は西から昇るし天井にだって立てる。瞬間は永遠になるしその逆もある。だから、影を濃くすることによって、それに追いつくかのように光が強くなる、そんなこともある。抗いながらも向かえる。向かう。何にも縛られなくていい、解いて手放していこう。

 ああ、早くしないと。考えは変わっていく。点を打たなければ、強く打たなければ。変わってはいくが確かに考えたことなんだ、その足取りを無視してはいけない。その時の視点を残したい。緩やかな曲線を描くんだよ。積み重ねた今がその瞬間の今になる、繋がっているんだ。堆積している。生まれて落ちたものがそれに伝わり、震える。熱が生まれる。重なり続けるその一瞬を忘れてはならない。全部確かめて、その先の今を感じるんだ。

 抗い続ける、何としても抗い続けなければならない。そこに生がある、なんとしても!瞬間のその繋ぎ目を見ようと感じようとしなくては!ここに残すこともその抵抗の一つだ、過ぎ去り続ける瞬間に、死に、どうしようもない現実に、悲しみや憂いに、全部抱えて抗うんだ。それらを全部抱えて、突き放すんじゃない、力を込めて抱き締める、それを抵抗とも呼ぶんだ。発散で収束だ、原因で結果だ、全部抱きしめて離すな、吸収して沈み続けるんだ。この憂いも靄も現実も全て。

 

 声に出すことも抗うことだ。あの人は集会を開く、文章を読んだ。自分も、どうにもならない気持ちを自分の日記の中で留まらせずに、ほんの少しだけでも外に出すことは抵抗になり得るのかもしれない、から。抗うということをとにかく行いたいだけなのかな。