3/4(金)

 抗っているのかもしれない。自分で勝手に限りをつけた生をもって、その輝きを増す死に。自分で勝手に輝きを増させている。それによってできる影が生だけど、逆なのか。生の影を濃くすることによって光を強くしているのか。辻褄が合ってしまう。確かな間違いに抗い続ける。そこに向けて歩みながらも抗っている。頭の中は自由でいい、現実に照らし合わせる必要なんてない。太陽は西から昇るし天井にだって立てる。瞬間は永遠になるしその逆もある。だから、影を濃くすることによって、それに追いつくかのように光が強くなる、そんなこともある。抗いながらも向かえる。向かう。何にも縛られなくていい、解いて手放していこう。

 ああ、早くしないと。考えは変わっていく。点を打たなければ、強く打たなければ。変わってはいくが確かに考えたことなんだ、その足取りを無視してはいけない。その時の視点を残したい。緩やかな曲線を描くんだよ。積み重ねた今がその瞬間の今になる、繋がっているんだ。堆積している。生まれて落ちたものがそれに伝わり、震える。熱が生まれる。重なり続けるその一瞬を忘れてはならない。全部確かめて、その先の今を感じるんだ。

 抗い続ける、何としても抗い続けなければならない。そこに生がある、なんとしても!瞬間のその繋ぎ目を見ようと感じようとしなくては!ここに残すこともその抵抗の一つだ、過ぎ去り続ける瞬間に、死に、どうしようもない現実に、悲しみや憂いに、全部抱えて抗うんだ。それらを全部抱えて、突き放すんじゃない、力を込めて抱き締める、それを抵抗とも呼ぶんだ。発散で収束だ、原因で結果だ、全部抱きしめて離すな、吸収して沈み続けるんだ。この憂いも靄も現実も全て。

 

 声に出すことも抗うことだ。あの人は集会を開く、文章を読んだ。自分も、どうにもならない気持ちを自分の日記の中で留まらせずに、ほんの少しだけでも外に出すことは抵抗になり得るのかもしれない、から。抗うということをとにかく行いたいだけなのかな。